大変なことが見えないなかで進んでいる
真ん中がなくなる
ハイかイイエ、イエスかノーか、AかBかの二者択一が増えた。AでもありBでもある、AでもないBでもない、そんなモノ・コト・場が減った。それは目に見えないから、その存在を知っている人は、それがなくなったことが分かる。しかしそれを知らない・体験したことのない人は、その存在に気がつかない。なぜそれがそうなったかという背景を知らない人は、その意味すら分からなく、それはいつかみんなの記憶から消える
途中がなくなる
AからBに、家からスーパーが直接つながったことで、途中がなくなった。寄り道がなくなった。スーパーができて、家のそばの商店街がシャッター商店街になり、商店街がなくなっただけではない。単に商店がなくなっただけではない。人と人がつながっていた場がなくなった。人と人が出会って交わされていた情報がなくなった。そこから生まれていたなにかがなくなった
カタチあるものが
かつてあったという記憶は
残ったとしても
それが生みだした無形のものは
忘却される
かつて東京駅はターミナル駅だった
東京駅は発着駅であり、終着駅であった。乗り換える駅であった。それを東京駅から上野駅を経由して宇都宮線、常磐線、東海道線を直通にした。いろいろな線をつないで、利用者はとても便利になり、鉄道会社にとっては効率化となり、コストダウンとなった
しかし「乗り換え」「振り替え」「溜まり」「休憩場所」がなくなったことで、もしもの時の対応力がおちた。様々な場で、健全なボトルネック・不便さが・遊びがなくなった。急激な力が入るのを防ぐために、部品の結合にゆとりをもたすことを「遊び」というが、「ハンドルの遊び」のようなコト・モノ・場が社会や地域や企業や生活の場からどんどんなくなっている
なにかとなにかをつなぐ
「遊び」がなくなっている
技術の進展に伴って、利便性・効率性が追求され
いろいろなボトルネックが解消されていくが
偶発的な出会いがなくなった
会社のなかも、そう。ネット検索による情報収集、オンライン会議によるワークスタイルが増えたことで、目的のテーマだけをやり取りして、会議前や会議後のメンバーどうしの何気ない雑談が減った。雑談のなかに、本来の会議の議論よりも大事なコトを発見したり、目的外の議論に発展したりした。会社のなかで確実にあったはずの
「邂逅(かいこう)」がなくなり
会社のチカラが落ちた
なにかひとつのコトを調べるのに、手間も時間がかかった。しかし様々な人に訊ねたり、資料を読みあさっている間に、いろいろなコトを見つけたり、予期せぬコトを着想したりした
「寄り道」と「前後」で
知識が広がったり深みが生まれた
それがなくなった。それでなに?と言う人もいるだろうが、時短と便利さと引き換えに、大事なコトがなくなった。そのコトは目に見えないコトだから、多くの人は問題意識を持たない
なにがおこっているのだろう
韓国ドラマは、面白い
あり得そうで、ないストーリー。なさそうで、ありそうなストーリー展開。韓国を舞台にしているが、現実の韓国ではない。最初から世界を意識した場が設定されている
人間の本性を抉(えぐ)り、人と人の関係性の根源的な本質を真正面に捉える。複雑なストーリーのように見えるが、単純でありながら明快で深く、波乱万丈なストーリーが展開される。だから主人公に同化して、熱くなる。よく練られている。一方、日本のドラマ・脚本に、それが消えた
イタリアの靴屋は、ダンテを長く語るという。フランスのデザイナーは、バルザックを何時間も語るともいう。しかし今の日本人で、近松や西鶴を長々と語る人はそう多くない
かつて長く語れる人が多くいたが、今は長々と語れない。ワンフレーズ、キャッチフレーズ、ワンセンテンスで終わる。ネット・スマホの検索結果をつなぐだけなので、話が短く、切れ切れで、つながらない。表面的なところだけをとり出すので、奥にあるモノが無くなり、風景や息づかいが聴こえない
話が深くならず、発展しない
動きの連続性が消える
近松の曽根崎心中の道行きや「巨人の星」の星飛雄馬が1球投げるだけで30分番組が終わるというような「長さ」が日本からなくなった
難しいとわかれへんから
もっと短くせえよ、簡単にせえよ
タイパでないとあかん
となり、点と点がつながらず、線が消えた。面にならなくなった。だから日本文化が生みだした独特な線や構図や絵や長々とした骨太の物語がうまれなくなった。薄くなり、面白くなくなった。それは、目に見えないことだから、いつか消える。消えてから、後悔する
目に見えない大変なことが起こっている。いまならば、戻れる