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本当にこんなんでええんか?ーこんな少子化対策はどうやろか?(下)

「こども年金」制度が、少子化の流れを反転させる私のファイナルアンサー。親が仕事をしていようがしていまいが、結婚していようがしていまいかにかかわらず、子どもが生まれた世帯に1人目で10万円、2人目で15万円、3人目で20万円の年金支給とする。「こども年金」は給付ではなく、自らの65歳になってから支給される年金の前倒しである

老後のために支給される年金を、経済的に必要なライフステージで移す「こども年金」は、社会的に効果がある少子化対策となる制度だと思うが、国で議論されたことはあるだろうか?


1 大学授業料を無償化に意味があるのか?

少子化対策として大学の授業料をこどもが3人目になったら無償化するという。小学校・中学校と高校の授業料の無償化の意味は違うし、大学授業料の無料化の位置づけはもっと違う。これで、どれだけ人口減少、少子化の流れを変えることにつながるのだろうか?

私立大学の授業料といえば、年間200万円から300万円かかる。これを無償化する国の財政負担が大きい。大学奨学金の大半は貸与型であり、利息を付けて返済しなければならない実質はローン。大学卒業後の若い年代で、余計、手取りが少なくなる

だから子どもを産めない
だから結婚がしにくい 

と考える。経済的に考えたら、そうだろう。現実、学力で、返済がない給付型奨学金をもらっている大学生は限られ、現状の大半の奨学金は貸与型で単純に借入といえる。その返済が苦しいから、その借り入れをチャラにするという社会的ロジックはあるのだろうか?

そもそも中国や韓国では、大学を出ても仕事がない。日本は人手不足だから売り手市場となっているが、日本でも大学を卒業してしたいと思う仕事と企業の仕事とがミスマッチしている

にもかかわらず、みんな、大学に行く

大学にいかなくても、現代の情報環境では、いくらでも学べる、学問はできる。明治以来の工業化社会に適した人材づくりを担ってきた大学の出口、社会が大学に求める位置づけは変わっているのに、大学は現代社会に通用する人材を育てることができているのだろうか?大学に行く人もそう

大学に行くことが目的で
なにをするために大学にいくかが
目的になっていない

だから日本で蔓延している大学の授業料を無償化しないといけないという意味はなんだろう。授業料を無償化してまで、大学に行って

その先に、なにがあるのだろうか?

経済的事情で大学にいけないのならば、貸付けにして長く返済できるようにしたらいい。短期の返済だから若い年代が大変なのである。また所得連動性で、その人の所得金額で返済金額を決める制度にすればいい

日本の少子化政策は、みんな一緒、競争を避けさせようとしている制度に見える。日本人は競争社会を強調するのを嫌い、手をつないでゴールできる社会が望ましいと語る人が多いが

そんな世界観は、現実社会にはない

2 独身者が増えて、なにが問題か?

独身者が目に見えて増えている。これからさらに増えていこうとしている。そのことが少子化を加速させて日本社会において大きな問題であるのは事実だが、独身が問題なのはこどもが産める年齢である。子どもが産めない年代になって独身で困ったからと言っても、社会的な福祉対策の対象ではない。独身であるのは

個人の選択でそうしているから

一人で暮らし、年齢をとっても、単身で、自分の考えで結婚しないという人がいたとして、それが社会にどれだけの影響を与えているだろうか?
 
国の制度設計者は、独居高齢の女性を心配している。なぜか?男性は高齢になって独り者でも、なんとか暮らしていけるだろう、しかし女性が高齢で独り者だと生活不安となる可能性がある

その生活不安から、社会不安になっていく

子どもが産める時に産んでもらわないと、国力が弱くなっていくのは確かでである。それが進んでいくと、国として困るので、婚姻制度を前提にしないで、結婚しなくても子どもを産んでもいいという時代空気になっている

たとえばコンビニで買い物する人を観察すると、独身の人が多い。コンビニで、独身の高齢男性が1人で食べものを買いにきたとしても、社会は何も思わないが、独身の高齢女性がいたら、どうだろう?

自分に娘がいて結婚をしないまま60歳70歳になったらどうなるのだろうという自分の家の事情や生活感が絡んだ先入観で、気になる

そういう感覚が紛れ込んでいる

3 親は子どもを食わせるのが基本

独身者が増えていくと、日本の家族のカタチが変わる。社会において家族のカタチは大事だが

少子化議論の対象としては、ポエム

家族とはなにかというと、「相互扶助」の対象であるということ。相互扶助とは、家族から生まれる子どもは、親が扶助しなければいけないということ

つまり子どもを食わせること

家族の議論も、制度的には誰が誰を食わせるのかの議論につきる。結婚していない女性も、年金を払っていれば年金がもらえる年齢になったら食える
 
だから独居の女性が問題なのではない。何が問題かというと、親と一緒に住んでいる独身女性が将来の問題を抱えているということ。なぜかというと、本人は年金を払っていないことが多い。親の年金で生活している人が多い。そういう人は生涯、基礎年金しかもらえない。基礎年金数万円では暮らしていけないとなる。そうすると、生活保護をうけることになる

国は、このことを心配している
親と同居する独身女性がさらに増えてくるということを。2020年時点で男性で約28%、女性で約18%。2030年には男性の3人に1人、女性の4人に1人が生涯未婚者になるという予測もある。親の財産がある人は、親が亡くなったら親の財産を処分すれば生き残れる。しかし親の財産がない人は、世の中には多い

それは、保険と同じで、自らの将来がどうなるかが予測できるのなら、保険をかけるとか貯金をするとかすべきだが、それもしないでニートで親の財力で過ごして、50歳代や60歳代になって、親が亡くなって、急に暮らしていけなくなった。その人は福祉の対象なのだろうか?生活保護である

4 猿は餌を分け与える 

かつて地域には、共助があった。地域の中で困っている人がいたら、みんなで助けなければいけないという規範が、町や村や地域にあった。地震や風水害が発生したら、誰かが困っていたら、地域の人たちで助け合った

猿は餌を分け与える 

知り合いの文化人類学者から聴いた。そうなると、「共助」とは日本人が古いコミュニティが佳き伝統としてつないできた規範ではなくて、世界共通のもので、集団のなかで食えなくなっている人がいたら恵む、いろいろな言い方があるが、「分け与える」というメカニズムは、人間が猿のときから遺伝子として持っているものといえるかもしれない
 
たとえば、ある小さい子がパンを食べていた。そのパンを食べている子を横でじっと見ている別の小さい子がいたら、「はい、あげる」とパンをちぎって渡したりする。これは人間のDNAに備わっているもの

共助とは文化でも何でもない
人間とはそういうもの

共助とかボランティアとか言っているけど、そんな観念・精神はない。私たちは猿と一緒なのだ。困っている人には、福祉ではなく、憲法でいわれる生存権の範囲で、生活保護等で対応すべきものである。共助とか地域の人たちで助け合うのが主軸ではない
 
伝統的に地域では皆でお金を出し合って地域共通の課題を解決してきた制度(講など)があった。現代は国民が税金を払っており、国民共通の課題は税金で行なうべきで、その使い方を社会として意味あるものに使うべきだという話である
 
石川の地震も東北の地震も政府がお金を出したというけど、そのお金はどこから出ているかといったら、税金である。国民が払った税金の範囲で、困っている人たちを助けてくださいということ

助け合うとかボランティアも有難いけれど、それを社会制度にすると「義務」が生まれてくる。だからあくまで税金でおこなうのが基軸である。現在および未来の日本に意味あるものに使うことが大事である

現在および未来の日本に必要なことが
なになのかは自明である

本年1月から開催してきた「未来を展望して、未来を開拓するための戦略を考える」セミナー(5月22日(水))も、今回で最終回となる。AI専門家の大阪大学の八木教授と東京大学の大澤教授と、社会文化研究家池永の徹底討論。これから社会はどうなる?どうする?都市・郊外はどうなる?どうする?ぜひご参加ください

「未来を展望して、未来を開拓するための戦略を考える」セミナー(5月22日


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