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心とナラティブ

こんにちは、ナラティブベースのハルです。娘が『パニック障害』の発作を発症したのはちょうど1年前の今頃、肌寒くなる秋の入り口でした。それ以前から不安障害を抱えていたのですが、このコロナ禍に病状が悪化してしまったことには意味があるのではないかと考えています。わたしたちの心は今、どんな叫びを上げ、何を求めているのか?そんな問いを持っています。
個人的な体験から見えてきた気づき、そこから生まれたオピニオンを、自社名でもある「ナラティブ(語り)」という概念を切り口にまとめています。今回のテーマは「心とナラティブ」。「医療とナラティブ」「組織とナラティブ」につづく第3弾、ぜひお付き合いください。

大前提の違いに気づく

娘が不安障害の診断を受けたのは2年半ほど前でした。新生活で電車に乗るのが怖い、慣れない人と話せない、頭が真っ白になりフリーズしその場を逃げ出したくなる(もしくは実際逃げ出してしまう)など。その症状が徐々に強くなり、日常生活が送れなくなりました。症状が出はじめた時に、わたしは「大丈夫、慣れていないだけ。慣れれば平気、平気。」と励まし続けていました。今考えればひどいのですが、その時は、多くの母親はそう励ますだろうと当然のように思っていました。気づく前のわたし。

娘が一人で移動ができなくなったことから、一緒に電車に乗り、歩き、たくさんの話をしました。外出の練習をしながら、時には具合が悪くなりハラハラドキドキし、時には仕事中に呼び出されわたしがパニックのような状態だったときもあります。娘が何をどんなふうに感じているのか、感じてきたのか。今まで聞いたことのないような細かい説明をしてもらい、そこからわかってきたことは…娘の受け取っている情報量の多さ。繊細さ。

見えていること、聞こえていることが、わたしと全く違う。

自分が無意識に揃っていると信じていた大前提が違ったのです。「受け取っている情報が一緒で、考え方が違う」のではなく、「受け取っている情報、そのものが違う」。どんな情報を受け取っているのかわからない状態で「どうしてそんなふうに考えるの?」と考え、娘に問い続けてきたのです。うまく言えませんが、わたしは「同じ世界を生きてきたのではなかったのか?!」というくらいの衝撃を受け、長い時間それを分かっていなかったことが、娘に申し訳なくて申し訳なくて、涙が出ました。
娘との長い同行と対話を経て、わたしは「慣れれば平気」と言っていた自分が、いかに的外れな励ましをしていたのかに気づかされました。

なんというか、娘の人生が豊かに肉付けられるようにと経験ばかりを気にしていた母親気分から目が冷めて、娘が持って生まれた元々の骨組みを、ありのままの形を、一人の人間としてまじまじと見せつけられたような気分でした。わたしは今までそれを「見よう」としてこなかったのかもしれない。それは、特別な経験でした。

変わる努力で疲弊する社会

わたしはこの経験の中で、大前提(その人が持つ情報=感じ取れること)の違いが「生まれもった特性による違い」であるがゆえに、問題が大きいのではないかと考えました。

つまり、「変えがたい生まれつきの何か」を、皆それぞれに持っていて、それが相手から(持っている情報が全く違い)理解されづらいために、合わせ変わろうとし、大きなストレスを生む。この構造はメンタルの問題だけでなく、容姿、ジェンダー、そして障害と名のつく・名のつかない、様々な問題にも通じるように思います。

それは変えられないし、変えなくていい。その人そのものだから。

それなのに私たちは変わる努力を繰り返します。そして、人と違うこと、「弱い」「足りない」「直すべき」と恥じ、時にはひた隠す…。

少しずつ、その辛さを告白していく人が増えているものの、多くの人が無理をして疲弊しきり、限界まできているところに新型コロナがやってきた。そんな火に油を注ぐような流れを感じられずにはいられません。

今後も、自粛環境による心の不調や後遺症など、コロナの影響による不安障害も増えていくでしょう。

「変わらなくていいんだよ」は誰のセリフか?

では、肝心の「変わらなくていいんだよ」というメッセージは、誰が出していけばいいのでしょうか?

娘の不安障害の件では、わたしも付き添いながら一緒に心理療法やカウンセリングを受けてきました。様々な手法を教わり親子で実践する中で、娘が自己理解を深め快方に向かったり、先ほど書いたようなわたしの気づきも生まれ、娘への接し方も変えていけました。

前記事にも書いた通り、自社のナラティブベースでは「ナラティブ・アプローチ(*)」というカウンセリングでも用いられる手法を実践してることから、この経験の中でも様々な学びがありました。これから求められる専門家の役割は、知恵を授ける知識豊かな人ではなく、いっしょに考える経験豊かな人というスタンスに変わる必要があること、改めて、問題解決におけるフラット(対等)な対話、ナラティブの重要性を感じています。

(*)「ナラティブ・アプローチ」とは
専門性を脇におき、フラットな対話から相手の重要な背景を引き出し解決策を探り出すアプローチ手法です。(ナラティブベースHPより)

一方、対話を重ね、相手のナラティブを理解し、信頼関係を構築することにはそれ相応の時間がかかるのも事実で、0(ゼロ)から関係性を作り、限られた時間で対話する心理療法、カウンセリングに限界があるのも確かです。相手が治してくれるというスタンスで頼るのではなく、家族、友人、仕事仲間と、目線を合わせ「変わらなくていいんだよ」を言ってくれる人を増やしていくことが一番重要です。

例えば、誰かがあなたに「変わらなくていいんだよ」と、やさしく声をかけてくれるとしたら、誰を望みますか?
よく知らない誰かではなく、自分をよく知る近い人ではないでしょうか?

余談:
ちなみに、わたし自身もこの問いを自分に投げかけてみたことがあるのですが、その時の回答は「自分自身」でした。その時、自分自身が「変わってなんぼ」と自分に長年言い続けていたことに気づきました。

あなたがわたしを知っている

今、ナラティブ(語り)が必要とされているのは、「心」という観点からみると、ひとことには、「あなたがわたしを知っている」という安心のためではないかと考えています。
自分の背景(コンテクスト)に関心を持ってくれる、深く知ってくれる人が周りにたくさんいれば、不安は解消され安心が生まれ、「変わらなくていい」と感じられるようになるのではないでしょうか。

そう言った意味では、悲しいことに、学校も会社も今はまだまだ「関係性」よりも「管理」が重視された仕組み・ルールになっています。語り合える距離にいない遠い関係性の人に(もしくはその人に報告するために)、計測されたり評価されたりすることが当たり前なのです。コロナ禍では、監視に近い状態に置かれる人さえ出てきました。
成績にしても、査定にしても、計測や評価はなんらかの「不安」を生み、「安心」と真逆の状況を作り出していることは、否めません。

ナラティブな距離が生み出すもの

学校も会社も「管理」や「評価」の発想を徐々に捨て、もっともっと分散された小さな単位に権限委譲が進み「関係性」重視になることで、「あなたがわたしを知っている」という状況を誰もが複数の所属するコミュニティの中で感じられる世の中になったらいいなと思います。

例えば、「管理」や「評価」のない小さなクラス、職場をあなたが任された想像してみてください。誰のために働きたいと思うでしょうか。今よりもっと、目の前の人のために働きたいと思えるような気がしませんか?
合理性を突き詰めてつくられた管理手法は、安心を奪うだけでなく、誰のために何のために働いているのか?ということを非常にわかりにくくしています。目の前の人ために働くという非常にシンプルなやりがいも、もう一度仕組みを考え直す事で取り戻す必要がありそうです。

語り合えるナラティブな距離が、安心だけでなくやりがいもつくり出す。

娘を見つめながら、働きながら、そう考えています。


さて、今回は「医療」「組織」につづき、「心」について「ナラティブ」の視点とわたしの実体験からの気づきを語ってみました。

今まだ、娘は症状と戦いながら、「変わらなくていい」ことを理解しようとしています。わたしもまた母親としても経営者としてもこの問題にじっくり取り組みたいなと思う毎日です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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