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教育とナラティブ

こんにちは、ナラティブベースのハルです。気づけば母親歴も19年と長くなり、真っ只中を抜けて少し振り返れるようになりました。家に居て子どもたちと過ごす時間が長くとれるワークスタイルを続けてきたことで、自分なりの教育を探究できたことはわたしの人生における大きな収穫のひとつです。
今注目される「ナラティブ(語り・語ったこと)」という概念を切り口に、個人的な体験から世の中について思うことをオピニオンとしてまとめるシリーズ、今回は「教育とナラティブ」。「医療とナラティブ」「組織とナラティブ」「心とナラティブ」に続く、第4弾!ぜひ、お付き合いください。

化石化した自分の経験に頼るのはやめよう

親になって誰もが感じるのが、自分の同年代のころを参考にしているのに、その参考にしている自分の経験が化石化しているという問題です。インターネットのない時代の教育を受けたわたしたち親世代が、生まれたときからそれがあった子どもたちを育てているのですから、まずもって何より情報環境が違いすぎます!情報過多時代と言われて久しいネット当たり前の世の中なのに、学校というシステムも先生というスタンスもそのままです。学校が大きく変わっていないのだから、親も同じ考え方でもいいような気になってしまうのですが、常に何だかモヤモヤ…。「何かが違う、でも違わない?」「変わっていない、でも変わらなきゃ!」そんな感覚、ありませんか?わたしもそうでした。

最初の緊急事態宣言から早1年半。以下の記事によるとオンライン化さえままならない学校もまだまだ多く、オンライン化できたところで手段が変わっているだけの学校がほとんどという状況。教育環境の「やり方」ではなく「あり方」が変わるのにはまだまだ時間がかかりそうです。

一方、家庭ではスマホの普及やタブレットの配布でネット環境にどっぷり浸れる子どもがほとんどです。「うちの子YouTubeみてばかりなの。」というお悩みは親の定番となりました。でも…ご存知の通りYouTubeには色々なハウツーや自分ではやってみることができないこと、知らないことに溢れていて、使い方次第では有益なはず。「見過ぎでしょ」「見過ぎてない」で喧嘩するネタにしているだけではもったいない。ではなぜそんな押し問答になってしまうか。これも化石化問題が原因で、わたしたち親が子どもの「今」をしっかり見て自分で判断していないことの表れではないかなと思うのです。

「いっしょに」を手放してきたわたしたち

冒頭触れたとおり、わたしは基本自宅をオフィスとした働き方を長く続けていたので、比較的時間や場所は自由になり子どもと過ごす時間も柔軟に作り出すことができました。そのため、子どもの習い事に付いていき見学しながらPCを開いたり、子どもが興味をもった展示やイベントにいっしょに行って仕事の着想を得たりといった親子の共有体験が日常的につくれる仕事環境にありました。(今は似た環境を持つ人が増えてきているかと思います。)

我が家がある地域(東京)では学童の終わる4年生になると学習塾に通わせそのまま中学受験がスタンダードです。ほとんどの共働き家庭は塾と習い事を増やし、そこまで送り迎えなどで仕事をセーブしていた母親たち(実際仕事をセーブしていたのは出産育児の流れでほとんどが母親)は「ようやくか!」と、仕事時間を増やしていきました。ところが、わたしはこの時期モヤモヤが募るばかりでした。そこまで子どもの関心ごとが増えてくる様子を間近で観察してきただけに、塾や習い事を増やすって、子どもとの時間を減らし、自分がモヤっている旧体制に送り込み、人任せにするだけになってしまわないか?!そんな気持ちがふつふつと湧いてきていたのです。

そこで、あえて自立を始めるこの時期に、積極的に「時間」というお金で買えない価値を子どもにかけていこうと決心し、普通はこの時期手放す「いっしょに」をとことんやっていきました。これは今まで自分が行った人生の選択においてとっても重要な決断だったなと感じています。「共有」ができていると、自分らしい判断がつくようになり、子どもとの対話が楽しくなりました。そうすると、不思議と子育て・教育で感じていた焦りや追い立てられるような感覚がほとんどなくなっていったのです。仕事とそれ以外がパラレルになって大変な時間は増えましたが、それは、わたしの学びにもなる大切な時間で、焦ってやる「山盛りタスク」ではなくなっていきました。

「共にする喜び」が原動力を生む

先ほど触れたYouTubeについても、シンプルに親子で「共有」しているコンテンツが少ないのが問題なのではないかと思うのです。わたしは動画URLを頻繁に息子、娘、それぞれに転送します。オンデマンドコンテンツのブックマークを共有しておき「暇な時これみてみたら?」と声をかけたりします。ためになるものだけではなく、ハマったお笑いも。逆に子どもがみているものもシェアしてもらいます。くだらないものも多いですがw 中には「へぇこんなわかりやすく解説してるものがあるんだ!」「こういう情報探すようになったのか」と驚くものもあります。同じ情報をみることで共通の話題になったり、わからないことを一緒に動画で調べて共通知識にしたり、共有している状態を大切にすることで「くらだらいものばかり見ているんじゃないか?」「また長いと注意されるんじゃないか」という互いの疑心暗鬼はなくなり安心して楽しめるようになっていきました。

親も子も先生も、全員が気づいている通り「情報だけなら、学校に行かなくても習い事に通わなくても手に入れられる。」そんな時代に「なぜ共に学ぶ場をつくるのか?」。
それはひとことには「共にする喜び」なんじゃないかなと思うのです。

わたしが子どもが自立する時期にあえて時間を積極的にとったことによって得た一番の気づきは、「いっしょに感じたい」「感じたことを共有したい」という欲求は、年齢に関係なく誰もが無条件に持ち合わせている人間の本能的なものだということ、そしてそれが互いの学びの原動力つながっていることです。共に過ごす中で、わたし自身も子どもの好奇心に感化され、興味範囲が広がり、それを子育てや仕事に生かすことが当たり前になりました。

「気づく喜び」とそれを「語る喜び」

もうひとつ、共にする中で大切なことは、自分で「気づく」過程を奪ってしまわないということです。モヤモヤするとかワクワクするとかいった感情が起きていく過程を奪わない。これは「先生が答えをもっている」授業や「先回りしがちな」家庭ではよく起きがちな話です。子どもが感じる過程を大人がショートカットしてしまっている状態は、実は大人たちが子どもの「今」を理解するためのいっしょの時間もショートカットしてしまっているんです。わたしは仕事の中でも『実感』という言葉をよく使うのですが、自分が感じた、手触りをもった、自分の力で気づいた、そういったひとつひとつの一見遠回りにみえる実感が、学ぶ、働く、そして育てる喜びに強くつながっていると思います。

この、気づく前に奪われる「興ざめ」状態は、その後のプロセスにも影響を与えます。自分が発見したこと、気づいたことは人に話さずにはいられませんよね? 誰でも経験があると思いますが、人は「気づいた」瞬間に「あれ、これ誰に言おう?」と思うもの。「気づく喜び」と「語る喜び」はワンセットです。この流れが共有をよりエキサイティングなものにします
目をキラキラさせて「これみて」「みつけた」と小さな子どもが手のひらにのせたものを見せてくれることがよくありますが、相手が親から先生へ、友達から仕事仲間へ、成長と共に変わっていったとしても、この「語る喜び」は変わりません。

自分の物語(ストーリー)を紡ぐ力

ここまで「ナラティブ」という言葉は使ってきませんでしたが、まさにこの共にする→気づく→そして語る という流れは、背景を交換しながら互いを理解する、プロセスを共にすることでコンテクストを共創する、ナラティブな工程そのものです。
実はこれらの子どもの伴走を通して、わたし自身もたくさんの学びと気づきを得て、それを仕事仲間に意識的に語ってきました。それが自社の「ナラティブ・アプローチ」の活用や、組織づくりを促進し、発展させていったのですから時間の使い方としては一石二鳥です。(詳しくは以下の記事から)

家庭や学校の教育の中で、子どもたちが自分なりに感じたことや気づきを語っていける場、聞いてもらえることによって自分の価値観や判断に意識的になっていくナラティブなプロセスをつくっていけたらと思います。
そういった教育があれば、ゆくゆくは自分の語り(ナラティブ)の中から道筋(ストーリー)を見つけ出してゆける自律的な大人になるでしょう。

共に感じて語ることが学ぶ意欲を生み出す仕組み

それが教育のこれからのあり方に求められるものだと思います。
大学を出てもなお「答え」を人に求めるような教育は、もうおしまいにしたいものです。


今回は、母親として教育について自分なりにもった視点や実践から気づいてきたことを「ナラティブ」という視点でまとめてみました。
共にする→気づく→そして語る。子育てで気づいた流れは、そのままわたしの仕事の一番大事な価値観にもなっています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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医療とナラティブ
組織とナラティブ
心とナラティブ

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