生成AIで日本は強くなるのか?ー日本の方法論「物真似」はどこに行った①
インターネット以上の社会影響があるのでは?ーチャットGPTなど生成AIの話題でもちきり。その現在の実力は、2桁の計算はできても3桁以上の計算はまだ苦手だとか、存在しない大学をさもあるように説明してしまうレベルではあるが、今後AIの学習能力が進めば、仕事の生産性をあげたり社会での活用シーンは増えるだろう。しかしこの生成AIだけで、日本は果たして強くなれるのだろうか?
1. 順番を変えてしまった日本
日本は、日本が日本であった方法論を捨てたのではないか?
かつて日本は海外のすごいものを見つけると、それを見様見真似で作った。 そのモノの原理など正確には分かっていなかっただろうが、モノをつくりあげた。原理が分からなくとも、モノを作り、世の中にだして、多くの人に買っていただけ、これはいけそうだと思ったら、専門の人間を集めて、磨きをかけて、大きく成長させた。それが古代からつづく日本の方法論だった。その日本のお家芸を世界がするようになって、世界は成長している
戦後日本もそう。戦後、日本の家電やスーパーが大きく伸びたが、なぜ伸びたのか?日本の自動車産業が世界を席巻したが、ここまで強くなったのはなぜか?たんに人口が急増して消費市場が大きくなっただけではない
戦後日本は、欧米で流行っているモノを探して、見様見真似で、自分なりのモノをつくった。そのモノができて、世の中にだすと、評判がよかった。そこで、もっと良いモノにしようとレベルアップ・品質向上しつづけ、さらに多くの人にお買い上げいただいた。そして、これはいけそうだと思った段階で、エンジニアやデザイナーやマーケターなどの「専門」の人材を集め、さらにすごいモノを作って販売したら、世界でも大きく売れた
日本はその順番を変えてしまった
何の順番を変えたのか?
モノの理屈とか理論を理解して、片仮名の経営ツールをチェックリストに「戦略」を作り、みんなが合意しないと、物事が始めなくなった
モノやコトをつくる前に、どうしたらいいのだろう、どんなモノやコトをつくったらいいだろう、イノベーションをしないといけないなど、ああでもないこうでもないと、社内のメンバーばかりで会議するようになった。外のメンバーや異なる文化をもつ人を参加させず、内々だけで議論ばかりするようになった
まず内々で計画をつくってからとなった
2.動機から立ち上げなくなった
もともとは、どうだったのだろう?モノやコトを始めるきっかけは、世の中を歩いて観たり聴いたりして、心を動かされたモノ・コト・ヒトとの「出会い」からであり
これスゴイな、これイイな
そんな発見・着想から、ビジネスを立ち上げた
そんな新たな発見から、自分ならどうするんやろ、自社ならどうしたらいいんやろと自分事で考え、前にやっていたアレとコレは一緒やな、アレとコレを引っ付けたらいいんやな…
という発想や類推から、ビジネスのアイデアを生み出した。世の中のモノやコトを観察して、自らの知識や経験と照らし合せて、湧いてきた着想・発想をもとに、自分なりのモノやコトをつくった。それが世の中の人々にイイねと受け入れられたら、それをぐんぐん洗練させていった。この順番で、日本はずっとやってきた。それが日本の方法論だった
DXやAIを駆使する、誰もが知っている大手企業がある。その世界的に有名な会社の経営者が、必ずしもDXやAIの詳しい知識やスキルがある訳ではない。技術は知らなかったけれど、すごい会社をつくった
世の中には、これはすごいな、これは面白いなと思う「原石」が転がっている。それを見たり体験した人は、いっぱいいる。しかしそこから何かをつかんだ人となにもつかめなかった人がいる。同じ風景を見ても、なにかを感じた人となにも感じなかった人がいる
それがどういう価値をもつのか、どういう展開ができるのかのイメージ、可能性を持っているのかを見抜ける人と見抜けなかった人とで、次が大きく変わる。世の中に起こっている「すごい」、「光っている」というモノ・コトの価値・展開性・可能性を具体のカタチにできないかと考えて、動くか動かないかで、次が変わる。何が大事かというと
まずやってみよう
創ってみようという動機
この動機、これはいけるのと違うかと思ったあとの「次の一歩」が大事。それで、日本はずっとやって、成長してきた
その流れが変わった
3.やらないための否定の質問
これは分かっているのか?あれはどうなっているのだ?リスクはないのか?そのエビデンスはあるのか?などと、すべてを詰めてからでないとGOしなくなった、始めようとしなくなった。そもそもがはじめてのことだから、エビデンスなどないのに、ないものを求めるようになった。つまり
やらないための否定の質問
ばかりするようになった
ある料理人がいた。その人の料理はとても美味しいと評判で、その料理人の店は人気だった。 その料理人はどこかの料理学校で学んだわけではない。体系的に料理を勉強してきたわけではない。高価な専門書を買って、本を読んだだけで、料理したのではない
親方のやり方を真似して、料理をつくった。開店前に、閉店後に、家に帰っても、なんどなんども作った。親方の料理のやり方を見て盗めと言われ、見様見真似でいろいろと考えながら作って、親方や先輩や同僚に食べてもらった。何回も料理をつくっているうちに、これはええわという出来栄えになって、お客さまに出していいぞとなり、お客さまからこれは美味しいなと喜んでもらえた
お客さまが美味しいねと喜んでもらえたが、そこでとどまったら、飽きられる。お客さまは、前に食べた料理と同じものでは満足しない。前回の料理よりも、美味しいものを求める。料理人は、お客さまに、前よりも美味しいねと言っていただくために、進化させないといけない
前よりも良いものにするために、どうしたらいいのか。世の中の人がイイねと評判になっているモノ・コト・サービスを探して観たり聴きに行ったりして、自分のモノ・コト・サービスをよりよいものにしてきた。しかし
そんなやり方は、もう古いわ
時間が、かかりすぎるわ
テキストやマニュアルやネットやYouTubeに、やり方は書いてある、読んだらわかる、見たらわかる。何度も何度も試行錯誤して身につけるなんて、面倒くさい。そんなことしなくてもいいと思うようになり、そんなこんなのやり方に慣れて、それが普通になった。そんな方法論が普通になって、気づいたら、力がどんと落ちてしまった
4 肉じゃがは物真似から生まれた
肉じゃがは、ビーフシチューみたいな料理をつくろうとして生まれた。ビーフシチューみたいなものをつくろうとしたら、これ、美味しいなと、みんなが喜んでくれた。これ、ビーフシチューよりも美味しいじゃないかという声もあがった。そのあと、これをもっと美味しくならないかという創意工夫が、人間の知恵が、叡智がつづいていく。このように
肉じゃがは、物真似から始まった
物真似したから、肉じゃがが生まれた。はじめに知恵や叡智を集めて議論していても、肉じゃがはできなかっただろう。ビーフシチューを真似したことから、肉じゃがが生まれた
何かの物真似をして、なにかを生む。そして、それをもっと良いものに、もっと美味しいものにできないかと、情報・知識・知恵・叡智を次々と集めて、磨いていった
この順番が日本のお家芸だった
しかし現在は、動く前に、まず知識を、情報を集めて、企画書・計画書のフォーマットを埋めようとする。やれPEST分析だ、やれ5フォース分析だ、やれSWOT分析だ。市場環境・市場性はどうだ、競合はどうなのだ、リスクはなにか、などの空欄を埋め、内々で、詰めて詰めて詰めて、分厚いパワーポイントをつくって、上に説明して、トップの了解を得ないと始められなくなった
しかし最後のGOの意思決定に辿りつくのは、ごくわずか。そんな順番で進めているので、GOできたとしても、チャンスを逸している。内々で検討している間に、世の中は変わってしまっている。なぜそうなるか?
そもそも順番が違っているから
どうしたらいいのかは、次回に考える