子どもの嘘をAIは見破れるか?—新教養考④
AI・DXが社会、生活、ビジネスを変える。AI・DXをリスキリング(学び直し)しないと、企業は生き残れない。AIという言葉を新聞紙上で見ない日はない。そもそもAIとはなに?日本語では「人工知能」と和訳されるが、どうもイメージが湧かない。いったいなに?
1.AIとはなにか?
AIとは、Artificial Intelligenceの略。Artificialは「人工的な」で、Intelligenceは「知能・知性」という意味。だから人口知能か。では、そのAIの対義語はなにかというと、Natuar Intelligence。NIが略で、和訳は「自然知能」となる。人間や動物など自然が生み出す知能ということだろうが、ますます意味が分からない
AIもNIも核は、英語の Intelligenceの I。英語 intelligenceの語源は、ラテン語の
inter(~の間、相互間)
lego(集める、読み取る、学ぶ)
この2つの語が組み合わさって、「物事をうまく識別できる」「理解力がある」となり、 intelligence は「知能・知性」となる。情報と情報の間をつなぐ、情報と情報を組み合わせるということか
インテリジェンスという言葉は、安全保障・軍事の世界で、よく登場する。敵や国際情勢などに関する「情報の収集」や「情報分析」するという意味で、インテリジェンスが使われるが、ラテン語の「何かを集める」「ものごとを識別する」に由来している
インテリジェンス=知能・知性は、おもちゃの レゴ(Lego)のようなものともいえる。レゴの部品があれば、なにかを作れる。レゴの種類が潤沢ならば、素晴らしいものができる。とすると、インテリジェンスは、こうともいえる
「情報」という食材を活かしきる料理
2.レオナルドダヴィンチは何者か?
インテリジェンスという言葉は、最近、あまり使われなくなった。かつては、尊敬の念を込めて、「インテリ」と呼ばれた。現在は、インテリを、勉強ばっかりして、現場では使い物にならない人のことを言ったりする
そこで、識者であるインテリの代わりに登場したのが、「専門家」。毎日のように、テレビにYouTubeに新聞に雑誌にシンポジウムにウェビナーに審議会に、〇〇の「専門家」一色となった
近年の大学の先生も、専門分化している。特定の分野は詳しいが、自分の専門以外は、詳しくない。テーマごとに、いろいろな人が出てきて、解説するが、全体として、どうなのかが見えてこない。そういう物足りなさが募るなか、思い出した人がいる。「万能の人」として有名な歴史上の人物である
レオナルドダヴィンチ
彼の名前を知らない人はいないだろう。人によって、レオナルドダヴィンチの見え方がちがう。レオナルドダヴィンチは、宇宙物理学者に尊敬されている、彫刻家、美術家にも尊敬されている。芸術家にも尊敬しているし、哲学家にも尊敬されている。稀代の教養家である
レオナルドダヴィンチは、ありとあらゆるモノコトに関心を寄せ、しかもそれぞれの分野で非常に高いレベルで表現した。芸術でもそうだし、科学でもそうだし、宇宙観も、哲学もそうだった。非常に広い分野で、科学者、詩人から哲学者まで、幅広く、現在も尊敬されている。現代の価値観から考えて、1人の人間がどのようにしてこのような活動ができたのだろうかと驚かされる
現代人は、なぜ鳥が空を飛ぶのかという研究と、「モナ・リザ」に距離感を感じるが、レオナルドダヴィンチからしたら、どう表現するかはどれも同じであり、自分が感じて表現する対象が、科学なのか、美術なのかの違いにすぎない。心に留める対象を、始めから限定していない、限定されていない
近代日本にも、寺田虎彦がいた。文学者であり、科学者だった。明治以降でも、科学者で、文学者だった人も多い。森鴎外もいた。軍医総監であり、文豪だった。斎藤茂吉もそう、精神科医であり歌人であった。北杜夫もそう、精神科医であり小説家だった
科学者であり文学者であることは、どういう人なんだろうと思う人がいるが、なにかを見て、なにかを感じて、なにかを表現することは、科学者、文学者に関係ない。心になにが留まるか、心に留まったものをどう表現できるかについては、ジャンルがないから、そういうことができた
3 AIが人を本気で𠮟ることができるのか?
知識はたくさんもっているが、その人の話が相手に響かない人がいる。専門知識やスキルや技術を持っているかは話をしていたら分かるが、知識ベースだけでは、人の心の中に入っていけない
一方、教養がある人は、その人が持つ教養から出てくるアナロジーや物語やシーンで、相手の心にピン留めされるような語りをする
すこし前になるが、「でんじろう先生」のサイエンスショーがテレビで人気になっていた。子どもたちだけでなく、大人のファンも多かった。専門用語を子どもにも分かる言葉に言い直して、科学原理を説明したので、科学が理解された。教養人のなせるワザだった。それをAIでできるだろうか
なかなか難しい
AIのデータベースを作っている人に、そういう教養があるか怪しい。仮にあったとしても、ある事柄を腑に落とすために、どういうアナロジーなり物語を語って、本当に言いたいことを人の心にピン留めされるように設計しないと良いものがつくれない
たとえば子どもを叱らないといけなくなったとき、子どもが悪いことをしたら叱るというロジックを内蔵したAIは、子どもが悪いことをしたら自動的に叱る。しかし
叱るということは単純ではない
極めて高度な技術がいる
人は、優しく叱ったり、強い口調で叱ったりする。子どもの表情、態度を見ながら、𠮟り方をかえる。AIはどうか。叱り方のいろんなケースをデータベース化して、こういうケースではこう、こういうケースではこうと、条件をインプットしておくと、AIが叱ってくれることができるかもしれない
ところが、人は嘘をつくことがある。お母さんが子どもを優しく叱っていて、子どもが嘘をついていることを掴むと、一転して、いい加減にしなさいと厳しく叱る。そういう芸当を、AIはできるだろうか
気弱な子や優しい子を叱るときは優しく叱る、乱暴な子には厳しく叱るというアルゴリズムをつくっても、その子が気が強いのか弱いのかという情報をインプットしていないと、AIは正しく判断できない。AIにインプットした情報が古かったり、刻々と変化する性格をデータベース化できないと、AIは的確な𠮟り方はできない。だったら、人間が考えたほうがいいという話になる
このあたりも、AIの限界ともいえる
知識ベースやデータベースはつくることはできるが、相手に腑に落としたり、得心させたり、モチベーションがあがるようにするため、喩え話をしたり、臨機応変に話題を変えたり、パフォーマンスをする
それが、教養がなせるワザ
小さい頃に、親父に叱られたとき、昔話をされた。一休さんの話が、よくされた。こういうことをすると、こういうふうになる。 ミミズにオシッコをかけると、おチンチンが腫れると、真顔で言われた。このような伝承や、花いちもんめ・かごめかごめ・おしくらまんじゅうなどの昔遊びも含めて
社会の教養である
ご飯粒を残すと、目がつぶれる。米には神様が宿っているので、食べ残したらいけないと諭された。それは食事のマナーというだけではなくて、子どもに、モノを粗末にしていけないことを教えるためだった。食べ物を粗末にすると罰が当たるというような伝承みたいな話を何回も何回もしているうちに、子どもはいつのまにか、使い捨ての紙を裏紙として使おう、リサイクルしようというような行動様式になる。しかしAIは伝承的な知恵をベースとした「因果関係」のストーリーが展開はできるだろうか
喩え話自体に、意味があるのではない。喩え話から、類推させ、物を無駄にしてはいけない、何事も大切にしないといけないということを、子どもに腑に落として理解させ行動させることが目的である。子どもに言って聞かせるために
どんな話を出せるかかが
教養ある人の腕の見せ所
それが、社会全体に足りなくなっている。流行の知識や技術やスキルを勉強するのはいいけれど、教養がないと、それだけでは人は動かない。だから、世の中が薄っぺらくなる
本やスマホを読んだり見たりして知識を覚えるだけでなく、佳いものを観に行ったり、尊敬する人の話を聴きに行ったり、現場に行って現実を観たり、現物に触れたりと、たんに経験するだけでなく、心にピン留めすることが重要である。現場に行って、心に響いたモノ・コトをピン留めしたいろいろなことが、後で活きてくる
「現場百遍・現場百回」と、昔、よくいった。現場に何回何回も行っていれば、本当はどういうことになっているのかがわかる。そうすると、見えなかったことが観えてくるものだということを教えてくれた
効率性・生産性一辺倒で、ほんとうのことを忘れてしまった人、企業が多い。忘れかけているのが、想像性と創造性。次回、そのあたりを書く
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