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雑談がうまい人と下手な人—新教養考②

健全なノイズがある。カフェでだれかと会話をしていて、横の席で交わされている他人の会話が自分の仕事の発想になったり、電車のなかで耳にした、知らない人たちの会話が自らの課題解決のヒントになったりする。テレワークになり、会社の会議もオンライン会議が増え、会議前後での雑談が消えた。来客が減り、外部の人との商談や打ち合わせもオンラインが増え、やはり雑談が減った。家や会社でいつも会っている人どうしの会話では手にできない「雑談」が減った

1 売れる営業マンと売れない営業マン

よく仕事をとってくる営業マンは、雑談がうまい。お客さまとの面会で、話題がつきない。いつ本題に入るのか雑談ばかりして大丈夫かと思う人もいるが、その雑談には意味がある。トップセールスマンが、時間潰しで雑談しているわけがない

なにかをインジケートしようと、そういう話をする。よく売る営業マンは、そういった話の展開をする。売りたいコトをストレートにお客さまに示すのではなく、自らの経験談や暗喩をよく使う。売れない営業マンは、説得技法を駆使して、単刀直入に売りたいコトを売り込もうとする

説得の技術の違いがある。
売れない人は、お客さまを言いくるめる説得をしようとする。売れる人は、お客さまが「なるほどなぁ」と腑に落ちるためのストーリーで会話を展開する。難しい技術的な話をすると、お客さまは飽きてしまう。相手のノリが悪いと思ったら、話を巧妙に切り替える。知らぬ間に、違う話になっている。これがうまい

パワーポイントを使ったプレゼンが増えた。提案と言ったら、パワーポイントで行う。講演会もそう。口頭だけでプレゼン、講演はできない。問題は、その内容。凝ったプレゼンシートで情熱的にプレゼン・講演するが、面白くない、すごく底が浅い。さらにプレゼンシートとシートの間がつながらないことが多い。プレゼンシートをなぞるだけで、シートには書いていない話ができない。間がもたない

テレビやYouTubeに最近よく出てくる時代の寵児とか天才学者と呼ばれる人たちの語りが分からない。ギリギリ一人語りは聞くことはできるが、誰かとの対話が成り立たなく、聞くに値いしないことが多い。なぜか?

2 教養は勉強するものではない

彼らにキャリアが足りないとか経験が足りないというのではなくて、圧倒的に教養が足りないのだ。ここが大事

学校をでて会社に入って、英語やITやファイナンスにマーケティング、さらにMBAを勉強しないと、人に差をつけられるということが不安になった。次は、学び直し・リスキリングしないと大変なことになる。そこでAIだ・DXだ・データサイエンスだとなった。アメリカで流行っていると言って、デザイン思考にアート思考がこれからは大事だと、美術館やアート展に通いだす。それだけでもだめ。教養を身につけないといけないとなって、ファスト教養で、古典を受験勉強のように暗記するようになった

教養は古典や伝統芸能や芸術を学ぶことだけではない。教養とは、古典だけではなく、本を読んだり、音楽を聴いたり、誰かと会話したり、どこかに旅して、何かを見て、自分の琴線に響いて、おや!?と関心を持つことからはじまるもの。その関心は、なにか面白いことはないかを探すといった「好奇心」ではなく

感性が大事

たとえばあなたが奥さんと喧嘩したとする。奥さんと喧嘩して、散歩に行くと、犬を連れて外にでた。散歩している公園で、鳥のさえずりが耳に入った。仲良くちゅんちゅんと鳴いている鳥のつがいの姿をみていたら、仲が良いということは、ソトからみても心が和むものなのだということが分かり、奥さんと喧嘩していることが馬鹿馬鹿しくなった。これが

アナロジー(類推)

日常的に喧嘩をするのは、人間だけだという。食べ物を争う喧嘩とか、パートナーを争う喧嘩は、生物共通である。しかし人間以外の動物の喧嘩は繁殖や縄張り争いのためで、日常的には喧嘩はしない。人間は浅千恵があったりエゴがあるから、喧嘩する。そういうことを無くしたら、いつまでも仲の良い鳥のつがいのように、ちゅんちゅんしていられると、気づく

そういう深いアナロジーがきくと、家に帰ったら、穏便な気持ちでいられる。鳥のつがいの姿を観て感じたことが心に留まっていると、なにかの問題が発生した時に、「鳥のつがいのちゅんちゅん」と結びつき、自らの問題解決のヒントにつながることがある

しかし鳥のつがいのちゅんちゅんに、なにかを感じる人と、なにも感じない人がいる。鳥のつがいのちゅんちゅんを見聴きしても、なにも感じなかったり自問ができない人は、あいつはこうだああだと、相手を責めてばかりいる。

一方、ちゅんちゅんをしている鳥のつがいの姿を心に留める人は、自分はどうして怒っているのだろうか?という「自問のモード」のスイッチが入り、私に何か問題がなかったのだろうかと考えるようになり、さらになにかに出くわしたらアナロジー(類推)の材料になる

これが教養である

生き物だけではない。大きな木が2本寄り添って互いにぶつからないように棲み分けている姿を見ると、情が入る。自分たちが今、喧嘩してしまった事柄を解釈するにあたって、まったく関係のない大きな2本の木を見ると、違った視点で考えるようになる

いろんなものを見たり聞いたりするだけでなくて、それを観たり聴いたときに、どうなっているのだろうか?なぜだろうか?という自問する。そこで感じたこと考えたことを、風景とともに、自分の心に留めておいたり、好きということを強く意識すると、日常的にはそれを忘れたとしても、なにかのときに、ぱっと気が付く

これが教養である

50年前のテレビドラマで忘れられない台詞を紹介したい

難病におかされて余命3か月の宣告を受けた息子に、それまで仕事一辺倒で息子と過ごせていなかったので、休職して息子をどこかに連れていきたいと言った父親に、担任の先生教養が言った言葉が50年経っても忘れられない

「息子さんは授業で海の絵を書かせた時、皆は青い海を描いたのに一人だけ真っ暗な海を描いた…貴方は息子さんを海に連れて行ったことがありますかか?金を使うより、大事なのは「海は青いんだ」という「普通のこと」を教えてあげることではないでしょうか」

「君は海を見たのか?」(脚本・倉本聰氏(1970年)

50年前の倉本総氏の「君は海を見たのか?」の担任の先生の言葉に、教養の真髄を見る

明後日の次回「新教養考③」では、大きく転換する社会を生き抜くうえで大切な、教養と教育と勉強と学習の違いを考えたい


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