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闇バイトの裏に流れている時代の文脈

なにがおこっているのだろう?この広域強盗事件を闇バイト・ホワイト案件を中心に捉えられているが、その視座だけでいいのだろうか?物事には背景・文脈があり、それがおこった社会構造の変化の本質をつかまないと、これからの社会を読み違えてしまう


1 ハイブリッドワークが、社会を変えつつあること

あれから
毎日会っていた会社の人となかなか会えなくなった
人と人の直接性が減り、関係性が薄くなった

コロナ禍でテレワークがはじまって
出社とテレワークが混在する
ハイブリッドワークが普通になり
会社の人との普通の関係性が変わり
 
自分の空間であるホームを中心に
同じ価値観の人々とつながろう
という世界観になろうとしている

「家庭(ホーム)と近所」という場
の位置づけを再発見して
「ホーム」をどこに置くかが
大事になりつつある

home(ホーム)と house(ハウス)は意味がちがう

house(ハウス)とは、一軒家という箱。
(家の字源:豚の上に屋根がかぶさっている様=豚小屋)
home(ホーム)とは、家という箱の内にある精神的な暖かさ、温もりのある場所。

そのhomeの位置づけが、変わりつつある

2020年のコロナ禍以来
会社中心から、オフイスとホーム共存
都心中心から、都心と郊外共存
会社時間中心から、自分時間共存
混ざり合い
ハイブリッドとなった
 
コロナ禍で
密となってはいけない
集まってはいけないとなった
 
コロナ禍の感覚が薄れだして
街に人が戻りつつあるが
元に戻らないことがある
それはなに?

2 パンを一緒に食べる仲間の「会社」が変わりつつある

会社=Companyとは
パンを一緒に食べる仲間のいる場所だった
 
会社で、仲間になにかあれば、気になった
顔色が悪ければ、“大丈夫?帰って休んだら”と声をかけた
ところが「声をかける」ことがセクハラになるかもしれないと
声をかけにくくなった
そうなって、本当に具合が悪い人を見つけにくくなった

そうこうしているうちに
コロナ禍を契機に始まったテレワークで
会社のなかで、朝から夕方まで、月曜日から金曜日まで
同じ場所で、会社のみんなが
ずっと一緒というワークスタイルではなくなった
さらに、みんなが、見えなくなった

テレワークが普及して
家が「ホームオフィス」になって
会社のだれかから声をかけられることが少なくなった
 
毎日、会社に通っていたころは
会社に出勤してこなかったら
「〇〇さん、出勤してこないね。どうしたのかな?」
「なにかあったのかな?」
と心配になった
 
それが、相互扶助(互助)の関係だった
他人事(ひとごと)ではない
ということだった
 
その人のことを
よく知らなかったら
その時間に来るといっていた人が来なくても
電話がかかってくるはずの人からかかってこなくても
「どうしたのかな?」
とは心配しなかった
なぜならば、知らない人だから

その人のことを知っていると
相手への思いやりが生まれた

これが相互扶助(互助)

毎日、学校で会っていた親友との関係が
卒業したら薄れていくように
 
テレワークが増えて
ホームオフィスが進めば
会社の仲間への思いやりが薄れていく

みんなが集まって目の前にいると、情が湧く
その人が困っていたら
どうしたのかなと心配になる

動物もそう
カラスが死んだら
他のカラスがそのカラスのまわりに集まる
象が死んだら
他の象がその象のまわりに集まる
ヌーも、仲間がワニに食べられても
そこから逃げない
 
動物も、仲間が死んだからといって
すぐにいなくなるということはない
仲間が死んだと思ったら、つっついたり寄り添ったりする
生き物が尊いのはそれ
 
それが生き物の習性だとしたら
「人が集まる=集団」のなかで
社会・組織の構成員どうしが、互いに助け合う
互助の精神が生まれた
 
しかし集まることが、コロナ禍で否定され
機能的にいけないとなった
リモート、分散型になればなるほど
互助が薄れていくのではないか

コロナ禍が過ぎたら
元にもどるかとも思ったが
もどらないこともある
 
「相互扶助・互助」がすたれつつある

3 孤独死が増えている

昔は、「近所」という場所に、意味があった
みんな、そこで生まれ、そこで暮らし
大人になっても、みんな、顔見知りだったから
なにかあったら、みんなで協力しあって
解決しようとした
 
しかし都会のマンション住まいになると
隣に住んでいる人が死んでいても、気がつかない
誰も、人を気にかけなくなった
そんな孤独死が増えている

社会福祉の観点から
貧困者をみる民生委員制度があるが
それでカバーできない孤独者が増えている

だれも気にかけない
気を遣う人がいない
本当は一人でいいとは思っていない
 
さらに分散化が進んでいく
なにかの帰属を求めていく

LINEでつながり、なにかあったら、連絡がとりあえるが
いつも連絡がとり合えるSNSも、十分ではない
「そこで、なにかあったときに、どうするか」
ということをセットしておかないといけない
 
その人が所持金100円しかなく
食うに困っていることが分かったときに
「そのとき、どうするか」
を決めておかないといけない

それをコロナ禍のなかで経験した
発熱して保健所に電話しても
「また連絡します」と電話をきられ
翌日も翌々日も連絡もなく
お亡くなりになった人がいた
対策を考えておかないと
連絡して、状態を伝えたとしても
問題は解決しない

「SNSは万能だ」という世界観がある
相手の状態を知るという意味では
SNSは素晴らしいツールではあるが
「知ったうえで、どうするか」
ということを決めたうえで
仕組みを整備しないと
問題は解決しない

コロナ禍のときのように
見殺しになってしまう人が現れる

4 お互いさまが消えつつある

コミュニティ(community)
という横文字が「まちづくり」の文脈で
日本で使われだしたのは、古くない
しかし本来とはちがう意味で使われがちである
 
communは、“共有、共通、共同”が由来
 
コミュニティとは、互助・共同負担のこと
自分のことは他人の問題でもあるということ
他人のことは自分の問題でもあるということ
 
おばあさんが洪水で溺れているところをみて
「お互いさま」だから
助けに行こうとするのが
「コミュニティ」の本質
 
自分が困ったら
助けてもらうという「予約」のもとに
地域の人々が困っていたら助けるのがコミュニティ
 
強制的にだれかに言われるからするのではなく
「お互いさま」だから、助けに行く
自分になにかがあったら
みんなが助けに来てくれる
 
そんな「お互いさま」が
日本から消えつつある

 
負担と受益のアンバランスが
著しく暴走している

要求して利用したいが、負担はしない
自分は負担しないけど、権利として受益はする
本来自分がするべきことを、他人に分担させる

5 ソサエティとコミュニティを混同する日本人

日本は、ソサエティ(society)
とコミュニティ(community)が混同されている
 
話しあったり、声をかけあったりすることがソサエティ

では、職場はソサエティかコミュニティか?
1人1人の機能、分限、役割が決まっているので
職場は「ソサエティ」であり
職場は「コミュニティ」ではない
 
にもかかわらず
まちづくりの人たちは、あるべき地域の姿を
職場のチームワークのような感覚をイメージしたり
まちづくり会社をつくったりする
 
コミュニティとソサエティを混同している
 
インターネットでつながるSNSは
ソーシャルネットワーク
SNSでつながっているのは
コミュニティではなく、ソサエティ
 
コミュニケーションと重なるので
判りにくくしているが
SNSは社会性、関係性から
ソーシャルをつなぐネットワークである
 
にもかかわらず
SNSをコミュニティ
と勘違いをしている人がいるが
 
コミュニティには、役割分担がある
 
相手に、なにかの役割を果たすことを求める
自分がおこなうべき役務を
自分だけでするのではなく
だれかにも手伝ってもらうのが
コミュニティ
 
おばあさんが川の氾濫で溺れていたり
船で助けにいくというのが
コミュニティ
 
なにが課題か
権利と負担が、アンバランスになっている
負担するからこそ、権利が主張できる
負担しないのに、権利を主張する人が増えている
 
本来のコミュニティとは「お互いさま」
現代日本には、自分の「分」を果たさない人が多い
 
これからどうなっていくのだろう

「未来を展望しうて未来を開拓するための戦略を考える」(特別編)


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