池永寛明|社会文化研究家
もう誰にも拘束されない―テレワーク革命の本質
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もう誰にも拘束されない―テレワーク革命の本質

池永寛明|社会文化研究家

会社で、現在、なにが起こっているのか。テレワークがなくなったら、この会社をどうしようかな?この二年半で、テレワークの生活が普通になった。出社勤務だけの会社になったら、会社をやめるかも?テレワークがなくなった会社には行きたくない。就活候補からはずそうかな。―コロナ禍を契機に、働き方の自由を覚え、テレワークのある生活を体験して、そのメリットもデメリットも感じているが、なによりも会社にずっとみんなと一緒にいて

周囲から拘束を受けることが
ばかばかしい
あほらしい

ことだったことに気がづいた

1 あなたは一人で成長できるのか?

テレワークが始まり、みんなが一緒の場所にいる時間が減って、一人で仕事をする時間が増えた。これでいいのかな?と訊きたいことがすぐに訊けなかったり、これに悩んでいるのだけど…と教えてほしいときに訊きたい人が、そばにいない。家で一人で仕事をしていて、自分はどうなっていくのだろう?これからちゃんとやっていけるのだろうか?

新入社員の教育が大変になったという。入社教育はオンライン教育中心になり、配属後の具体の仕事力は、一人で家にいるだけで身ににつくのだろうか?これまでのような現場でのOJTがなくなって

人は成長するだろうか?

この問いは、正しいのだろうか?人材育成とは、何を教え何を学ぶかが目的であり、どう教えどう学ぶかは方法論である。いちばんその人が身につく手段を選択したらいい。

だからオンラインかオフラインかの二者択一ではなく、ありたい人材に育成するために、オンラインとオフラインのそれぞれの強みを活かして組み合わせたらいい。教育は一律ではない。人それぞれである。たとえば小学生や中学生にはオフライン教育のウエイトを高くし、高校生や大学生にはオンライン教育のウエイトを高くするというように、年齢・経験年数に応じて組み合わせたらいい。大事なのは何を教えるのかであり、その内容が極めて薄いことが課題である。

この文脈で考えると、OJT は現場がある製造や施工、サービス役務のある場所での働き方に行われるものであり、ホワイトカラーの育成はオンライン教育で可能なことが多い。

そんなことはない、OJTをしないと育たないというが、その組織で果たすべき役割と仕事、そのために身につけるべきスキルが明確化されていない組織である可能性が高い。大事なのは、オンライン化でその組織で学ぶべき事柄、身につけるべきスキルを組織的に整理することである(コロナ禍で大学がオンライン講義にしたことで、口頭中心だった講義内容がレベルアップしたように)

学びを変えることで、これまでOJTの名のもと 新規人材への上司や先輩のマウンティングというような職場の悪習が

リモートワーク社会のなかで
消えていくかもしれない


2 みんな一緒に同じ場所で仕事をするということ

テレワークが普通になっていくと、みんなと同じ場所で一緒に仕事をするというスタイルがなくなり、会社はどうなっていくだろうか?ーという問いこそが、極めて日本的である

人と同じ場所で仕事をするということは、以下の「日本人気質」

「他人と同じ」
        →出る杭にならないように
こっそりと差別化」
       →他人への悪口と出し抜き
責任は全員」
       →曖昧・無責任体質

の温床となっている。だから働くことにおいて、同じ場所にみんなが一緒にいるということは絶対条件だろうか。

コロナ禍前から、IT化で、仕事は大きく変わっていた。しかし仕事を再定義して変えなかった人、会社が多い。仕事を変えないなか、コロナ禍でテレワークをするようになった。オンラインワークのレベルは、情報リテラシーの観点から、若者と中堅層以上で大きく乖離する。そうなると、情報リテラシーの低い

中堅層以上はいらない

ということになるのか?

いや、そうとは限らない。情報リテラシーだけで、人を評価できない。IT・DXのスキルは持っていても、社会・人のことを知らなければ、仕事はできない。技術だけでは、社会の課題は解決しない。顧客価値を創造できない。そんな人が現場に多い。

技術だけが変わるのでない。社会も変わり、人の価値観も変わりつづける。だから技術と社会・人をつなぐという「仕事の再定義」をしつづけないと、機能不全に陥る。仕事を見つめ直して再定義しないから

仕事ができる・できない
の客観基準がない

それがないのに、人は、人の仕事を正しく評価はできるのだろうか?できない。だから偏った、納得性のない主観的評価をしてしまう。

3 テレワークで気づいたこと

オンライン会議の最中に、突然、ピンポン。会議はしばし中断となる。ワークにライフが混じる。仕事の合間や仕事を終えたあとに、家の用事をしたり、子どもをみたりできる。しかし通勤型だと、仕事をおわっても、それらはすぐにできない。朝に家を出て夕に家に帰るまで、ずっと会社に

身体が拘束されていた

また毎日1時間も1時間半もかけて通勤する出社スタイルに戻ったら、家族から、「コロナをもらって帰ってくるのでは」といわれたりする。これまでずっとつづけてきたオフィスづとめに戻ることが

ばかばかしい
あほらしくなってきた

それだけではない。「小さいときから、塾に通い、好きなことを我慢して勉強をして、進学校に合格して、さらにアクセルを踏んで受験勉強をして、いい大学に合格して、みんなが知っている、有名で、大きな、いい所に行く」という人生設計が白けだし、崩れかけている。

ゴールだと思っていたところに、なにが待っていたのか?
幼い時から、ひたすら頑張って、「立派」だと言われている所に入っても、能力がなかったり、やる気のない先輩や上司に付き合わされ、脈絡ない無理難題を与えられ我慢してこなせたとしても、自己成長できるとは思えない。そんな先輩・上司の日常を見ていても自分の未来が描けない…そんな会社生活はばかばかしい、あほらしいと思えてきた

そんな能力のない、やる気がない先輩や上司と付き合っている時間が

勿体ない

意味がないと思えること、生産性がないこと、創造性がない仕事を我慢しつづける時間が

勿体ない

と思うようになった

4.仕事は変わったのに、働き方を変えていなかった


ずっと前から、仕事は機能不全に陥っていた。
IT化・効率化が進み、他の部署、社外の関係者に会わなくても、仕事はまわるようになっていた。コロナ禍前も、オフィスでの仕事は「在宅ワーク」のようなものだった。一日中、だれとも喋らない、だれともかかわらない日もあった。それでも

仕事の多くは
なにも問題なく進む

人事管理の統制の観点から、「顔が見えていないといけない」と言ってきたが、コロナ禍前から四六時中メンバーの顔を見ることができなくなっていた。みんなが同じ場所でいる、朝から晩までみんな黙々と机に座っているというオフィスの風景は珍しくなっていた。

仕事ができる人は、在宅でも出社型でも同じように仕事をこなす。仕事ができない人は、会社でも在宅でも仕事ができない。

そういう人は淘汰されていく

組織もそう。コロナ禍前から、変化する社会と仕事・組織構造とが機能不全を起こしていた。コロナ禍でテレワークをしていると、

部長・課長は
なにをしているんだろう

こんなにいなくてもいいのでは

と思うようになった。そうなると、サラリーマンの目標が、出世して給与があがる、課長や部長に昇格してリスペクトされることだと思い、子どもの頃から頑張ってきたが、大人になった現在、その未来像が消えようとしている

どの会社につとめているのか、どんな役職についているのかということよりも、どんな仕事をしているのか、社会にいかに役に立っているのか、その評価としてどのような報酬を得ているかのほうが大事になってきている

では、どうしたらいいのか。それは、来週水曜日に考える。


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池永寛明|社会文化研究家
【2022年7月1日始動】コロナ禍・ウクライナ紛争を契機に、大断層・構造変革しつつある日本社会の現在とこれからを考えています。日々の社会を3つの眼(虫の眼・魚の眼・鳥の眼)で観て、構造的・文化的に捉えて、発信します。著書(「日本再起動」「上方生活文化堂」など)