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変われない日本―もう元のとおりでない

彼女が同期のトップで部長になった。ええなぁ。上の覚えがよかったからな。彼は花形組織の課長に抜擢された。若いのにすごいなあ。どうやったらそんなに出世できるんやろか?あの人は本社から飛ばされた。やっぱりな、あれだけ上司に正論を言ってたらなぁ、そうなるわ。可哀そうやだけど

1.誰があなたを評価するのか?

組織のなかの評価に、あなたは納得していますか?あなたの評価は、同期や組織のなかで決められたもの。しかしあなたの評価は、身近にいる人たちの目線のなかでのパフォーマンスで決められた相対的なもの。だからあなたが学校を出て、社会人となって

選ばれる、選ばれないか

は必ずしも絶対的評価ではなかった。その組織の誰かの評価に過ぎない。組織のなかでの自他の評価は、他人の目線・視線のなかで不合理につくられたもの。不承不承な事柄が会社・組織のなかで営々と繰り返され、それぞれの会社・組織独自の文化が醸成されてきた

毎朝、家を出て、通勤電車に乗って会社に行き、朝から夕方まで、職場の人たちみんなと会社で机を並べて一緒に仕事をして、定時がきたら会社を出て、電車に乗って家に帰った—その日常がコロナ禍で変わった

コロナ禍を契機に、在宅勤務・テレワークが本格化した。一人で、家や会社以外の場所で仕事をするようになった。会社のなかの会議室に集まった時間は、みんな一人一人が思い思いの場所で、それぞれのパソコン・スマホの画面で会議する時間となった。会議以外の時間は、一人で自宅で仕事をする。ずっと繰り返されてきた日本の仕事の場と時間、一日のタイムラインが大きく変わろうとしている

コロナ渦を契機に始まった変化のなかの最大の変化。一人で仕事をするようになったこと。誰にも邪魔されずに仕事ができること。マイペースで仕事ができるようになったこと。仕事中でも、仕事が終ったらすぐに、家のことをしたり、子どもを見たりできるようになったこと

一方、ずっと一緒にいた職場のみんなと一緒にいられなくなった。分からないこと、相談したいことがすぐに訊けなくなった。ちょっと息抜きで雑談ができなくなった

一人で、こんなことをしていて、大丈夫だろうか?職場のみんなは、なにをしているのだろうか?若しかしたら、みんなはうまくいっているのに、自分だけが取り残されているのではないだろうか?—テレワークが始まった当初は、うまくいくんだろうかと不安だったが、このスタイルが普通になった。変われない。

しかし、だ。家で私一人で仕事をしている。ときどき会社に行っても職場のみんなと会えない。そんな仕事のカタチになって、私の仕事、私の仕事ぶりは、上司にきちんと評価してもらえているのだろうか?先輩たち、別の組織の人は、私のことを見てくれているだろうか?私のこと、誰が評価してくれるだろうか?他人の目線なしで成長できるか?これから、どうなっていくのか?

頑張っている私の姿が
組織のなかで、顧客からも
見えなくなる

私の名前と性格と外見、私の仕事のパフォーマンスと振る舞いは、バラバラに切り離されていく。さらにコロナ禍が進むなか、仕事、会社、あなた、同僚、上司、パートナーとの関係は、どうなっていくのだろうか?

2 価値観が変わった

後世、振り返った時、あのときのあれで変わったと思う事柄がある

それがテレワーク
かもしれない

コロナ禍を契機に、みんなの価値観が大きく変わろうとしている。
価値観が変わるとは、今までの常識だと思っていたことが、そうでなくなるということ

在宅勤務が中心だったあなたが、出社勤務中心に戻った。「また御堂筋に通勤するようになった」と奥さんに言った。すると奥さんは、「前に戻れてよかったね」と言うのではなく

ふーん

と反応されるようになった。このコロナ禍2年半で、

オフイスで働くこと
オフイス街で働くことが
価値あること
と思われなくなりつつある

毎日、満員電車に揺られてオフイス街に通勤することが、「ふーん」となり、それが優越感でなくなり、自らもそうだなと思うようになった。こうして社会の価値観が変わっていく

こうして元に戻るのか戻らないのかの議論が意味なくなっていく。「元のとおりではなくなった」という前提に変った。「戻りうるものか、戻りうるものでないか」という議論は意味がなくなった

元のとおりではなくなった
と考えなければ
時代の流れから取り残される

3 元のとおりではない

来春、コロナ禍だけしか経験しなかった中学生や高校生が卒業する。入学からコロナ禍しか経験したことのない大学生が就活をしている。コロナ前を知らない彼らは、「部活とバイトで学生時代を謳歌した」というような就活先の先輩たちの話をオンラインの画面越しに聴いても

「ふーん。意味わからん」

会社も、そう。「みんなで一緒に、助け合って仕事をしてきた。それで成長してきた」というような会社文化に染まった上司や先輩が体験的に身についた「彼らの常識」をオンラインの画面越しに聴いても

「ふーん。それでなに?」

このような「ズレ」が広がっている。コロナ禍前からそのズレが始まっていたが、コロナ禍を契機にその変化が本流になろうとしている。現状を掴むか掴まないかで、その後が大きく変わる

「ズレ」に気づいていないほど、痛々しいことはない。出社スタイルに戻ったからと言っても、在宅のようなカジュアルな服装で行けばいいのに、オフイス街に通勤するからと服を新調しなければと考える。どこか痛々しい。会社に行ったら、同僚とオフイス街のこじゃれたお店でランチしなければいけないと考える。本当は無駄使いしたくない。とても痛々しい。夕方に仕事がおわったら一杯飲みをしないといけないと考える。本当は早く帰って家族といたい。とても痛々しい

そんな我慢する意味がないことを我慢していると、「まだそんなことしているの?」というまわりの人々から、冷ややかな目で見られる。「満員電車に乗ってきた」というと、「コロナにうつたんじゃないかの」と心配がられ

「それは、お気の毒」

といわれるようになりつつある

いつまで、いままでどおりのことをしているのだろう。「もう変わってしまった。元の通りではなくなった」という空気感が広がるなかで、そのギャップを埋められない

時代に取り残されている姿は
痛々しい

明治になっても、「ちょんまげ」をしている人は、どう見えたのだろうか?明治維新後に、ちょんまげをしてはいけないという法律は出ていない。武士が髷を切ることは「出家する」ことと同じ意味で、何百年も続いてきた武士の価値観が変わった。明治4年の散髪脱刀令は「ちょんまげ」から「ざんぎり頭」とすることを奨励するだけで、ちょんまげ禁止令ではない。しかし一気にざんぎり頭に変わった。だから明治も10年がたっても、なおもちょんまげを結っていた人がまわりからどう見えていたのかは想像に難くない―痛々しい姿に見えたろう

新型コロナウイルス感染対策も重要だけど、もう疲れた。こんなことを続けていたら、本業が大変なことになる。もう元に戻ろうと考えて、新型コロナ新規感染者が過去最高になろうと、会社に出勤してオフイスで仕事をするようにする会社が増えている。

コロナ渦前に起こっていた変化の潮流が、コロナ禍を契機に本流となり、価値観が変わったが、変わらない人・企業がある。それは、なぜか?

オフイスで仕事することが
生産性も、付加価値が高い
と考えている

本当にその前提は正しいのだろうか?それは来週考える。


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