「弱い産業革命」を実感する- 丹後で考える(後半)
京都府の丹後に5日間滞在して考えたことの後半です。前半は、こちらで
す。
町の風景のなかに何があるか?
丹後はちりめんで知られた土地です。したがって、町を歩いていると、織機の音が聞こえてきます。しかし、音がないと、そこが工場だとはわかりません。
というのも、一般の住宅とあまり外観が変わらないのです。今回、7-8軒の工場を訪れましたが、ほとんどが、そのような家屋にありました。そして、ある工程を見た後、道路を渡ると別の家屋があり、その中にその先の工程があったりします。
イタリアにアルベルゴ・ディフーゾというシステムがあります。過疎化した集落の家屋がホテルとなり、集落の入口がレセプションとして機能します。分散型ホテルです。丹後の繊維の手工業システムを経験すると、これは「ファブリカ・ディフーゾ」だと思いました。町中の分散型工場です。
この「隠れた風景」に文化アイデンティティがあるようにみえます。
今どきの働き方がここにある。
このシステムが可能なのは、繊維分野だからこそでしょう。大きな機械が家屋サイズの空間におさまるはずもありません。その結果、日常生活と生産活動がもの凄く近いです。兼業農家の女性が、こうして工場でパートタイムで働いていることが多いようです(ある工場では、自分の都合の良い時間帯に来て、規定の分量だけ仕事をすれば良いと説明してくれました)。
このリアリティを見ていて、ぼくはひとつ「あれっ」と思いました。
都会の大企業の社員が働き方改革のもと、副業がポジティブに推奨されています。しかし、田園風景のなかにある兼業は「仕方ない」ものとしてネガティブなニュアンスが込められる事が多いです。いや、いや、丹後には先進的な働き方があると見るのが適当ではないか、と考え始めました。ここにこそ、モデルがあるのです。
作業を見ていると、ここに工業の文脈で盛んに指摘される、機械が人と対立する構図が大袈裟に見えます。合理と非合理、科学とアート、こうした公式的な組み合わせが、20世紀の巨大化したサイズのなか過剰に語られてきたことが理解できます。
その意味で、もう一度、産業革命の最初の姿を反芻するのが良いのではないかと思ったのです。「弱い産業革命」との文脈が、この丹後には生きていると思いました。そうすると、次のような発想がでてきます。
もちろん、悲観論は絶えないが、新たな動きもある。
言うまでもなく、着物の需要の低下や従業員の高齢化など、この丹後に悲観するネタには欠かせません。しかしながら、そのなかでもいくつか新しい道を見つけようとしている会社は存在します。
いわゆる「下請け構造」(しかし、正直にいえば、日本全体が世界のなかで下請けになっていることが多く、丹後の繊維産業だけが京都の問屋の下請け体質だと外部の人が指摘するのはお門違いに聞こえました。下図にあるように、日本の生地輸出は衣料品輸出と比べ異常に割合として高い)から脱皮しようとの動きもあります。
また、丹後が好きで、丹後に新しい生活拠点を持ち始めた人とも何人かお会いしました。日本の人だけでなく、外国からの方もいます。
ある方は「都会の教育システムから離れ、地方のインターナショナルやオルターナティブな教育の学校に行かせるのも、ある意味、画一的。それより、カイコを育て、近くの機織りを見せて独自の育て方をした方が良い」と言っていました。
農家の方が閑散期には自分のところの米を使って菓子を作って売っています。収入源の分散化という目的もありますが、新しい農家のモデルを探りながら、夫婦で人生の意味をよく語り合うようです。
構図そのものを変えようとする人に期待がもてる。
毎日、このようにいろいろなところを訪れ、さまざまな人と話し、案内してくれた方たちや同行したイタリア人のビジネスパートナーとも徹底的に議論しました。
そういう過程でぼくが思ったのは、前述した「兼業のポジティブな捉え方」だけでなく、例えば、仕事そのものに上下をつける発想そのものを変えるタイミングではないか、ということです。機械やITの進化とともに、「単純労働はロボットに任せる」「クリエイティブではない仕事はAIがやる」ということが当たり前のように言われてきました。
しかし、人間を知的労働の「専任」とするのが適切なのでしょうか?
このテキスタイルの工場を見ていて感じたのは、「単純労働」と区分される作業は誰もがやるのが新しい仕事の姿ではないかということです。子育てや家事を誰もがする時代になってきており、それを正当化するためなのか弁解するためなのかわかりませんが、それらをあえて「クリエイティブ」と形容する向きもあります。しかし、なぜわざわざクリエイティブな仕事であると大きな声で言う必要があるのでしょうか?
それは知的作業をする人間も子育てや家事をやるのが普通になってきたとされますが、それでも躊躇する人がいるから、そのような形容をもってきて何らかの気持ちを覆い隠している(あるいは、発奮させている)のでしょう。これは実に不純です。
ですから「工場の作業を知的作業ではない」と見なすのではなく、工場の作業も皆が普通にやる仕事に入れるのです。知的作業をする人も週に2-3回やる仕事と考えると、こうした産業の新しい見方ができてきます。
知的な人が農作業をするのがカッコよく、セラミックを作るのもカッコよいのなら、(作家性の低い)機織りの作業に携わるのもカッコいい。AIに仕事を奪られるなどとビビッているのではなく、あらゆる仕事をフラットに捉え直すこと自体が前進に繋がるのではないと考えます。どのような仕事にも貴賤はないと多くの人は語りながら、その実、知的労働と工員の労働を明確に分けた議論が行われてきました。ここを反省し覆すのです。
このような考えに至ったのは、今回の丹後5日間の滞在のおかげです。丹後には、このような思考の転換を促す何かがあります・・・。