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【前編】これからの教育のために、「社会との結び目」を増やす、3つの方法

お疲れさまです。メタバースクリエイターズ若宮です。

今日はパーソナリティをしているVoicyで「#これからの教育」というトークテーマが出ていたので、「これからの教育」について話したことを記事にしてみました(文字の文化と声の文化のちがいがあるので、そのまま書き起こしではなく加筆リライトの感じです)

文字読むより音声の方がいい方はこちら↓をお聴きください


学校や教育は、これからもっと「社会との結び目」を増やしたほうがいいと思う

日本の教育(特に公教育)はまだ型通りのところがありますが、私立ではここ5年くらいでアクティブラーニングだったりSTEAM教育だったりが言われるようになってきた気がします。いわゆる「学校」とはちがうオルタナティブ教育という選択肢も増えています。

僕自身、企業や大学などで育成に関わってきたり、子育てもする中で、日本の教育はもっと変わっていかないと、と関心(危機感?)が年々高まっています。

色々と改善点はあるとおもうのですが、その一つとして個人的には教育と「社会との結び目」をもっと増やすべきだと考えています。

なぜかと言うと、日本の教育ではほとんどのことが学校内に閉じて、いわば「孤島」のように社会から隔絶され、学校内の論理だけで動いている気がするからです。


これには色々な原因があると思います。まず、親が子供の教育を学校に「丸投げ」しがちだったり、生徒や学生も目指すのが受験やテストのための効率的な勉強になっていて、学ぶことが生きる上でどういう意味をもつか?そのつながりを想像する暇がないとか、「教わる側」の問題があります。

そして他方、「教える側」にも課題があります。現場の教師のみなさんがめちゃくちゃリソース不足の中であらゆることを頑張っていることには本当に感謝ですが、教師や教員はいわゆる「社会人」を経験したことが無い方が多く、かつ働き始めた後は忙しすぎて改めて社会とつながる暇もありません。
(以前、女子大で教鞭を取る知人から学生の就活や働き方についての相談を受けたことがあります。大学ではそういうアドバイスも求められているが、自分は就職したこともないので何もわからない、と)


学びも人のつながりも学校の中に閉じていて、限られた環境の中で評価される。それはあたかも無菌室や実験室のように外界と隔絶された特殊な環境なわけですが、それが全てであるかのように勘違いしてしまう。

そして学校を出てはじめて社会とつながる。実験室では良い結果が出ていても、外ではそうはいかないわけですが(皮肉なことに学校で優秀な人ほど)柔軟性を欠き、適応できなくなる。そうならないように「隔絶」するのではなく、もっと社会とつながれるようにアクセスを整えて行ったほうがいいと思うのです。


結び目①:解やルールを自分でつくる経験を増やす

教育と「社会の結び目」を増やすために具体的にできることとして3つ位あるかなと思っています。

一点目として、子どもたちが「自分たちで解をつくる」経験を増やすこと。

VUCAの時代が言われる昨今、「正解がない教育」と言われることが多くなりました。アート思考もそうですが、「正解がない」とは「何でもあり」というわけではありません。と言って「どれもが正解ではない」と途方に暮れていても仕方ありません。

正解は誰かから与えられるものではなく「自分たちでつくり出していく」ものです。お恥ずかしい話、僕もかつてはどこかに誰かが用意してくれた正解を調べたり覚えたりするのが勉強だと思っていました。そういう「お勉強」を卒業し、自分の頭で考え、自分らしい解をつくることこそ本当の学びだと知ったのは2回目の大学の時、20代も半ばでした。

解は与えられるものではなく、つくり出すもの。教育の中でそういう感覚をもつためにも、学生のうちから自分たちでルールづくりをすることが重要だと考えます。


たとえば「校則」。一般的に学校側が決めていると思いますが、その中には下着の色や髪型、地毛の証明など、ほとんど意味不明なものもあります。当時その校則がつくられた理由はあったのでしょうが、社会から隔絶されているためにアップデートされることなく、旧石器時代か?みたいなものもたくさんある気がします。


こうした状況を変えるため、こども家庭庁でも、

「校則の見直し」について「子どもなど関係者の意見を聞いて定めることが望ましい」と明記した。こども家庭庁によれば「校則の見直し」を閣議決定文書に盛り込むのは初めてだという。

とのこと。一歩前進なわけですが、個人的にはまだ足りないと思っています。なぜかというと「子どもなど関係者の意見を聞いて」とありますが、「定める」のは大人、という前提は変わっていないと思うからです。


まだ少数ですが、自由な校風を持つ学校では生徒たちがルールを決める自治型のところがあります。麻布のような学校では、校則が非常に少なく、それ以外のルールは生徒たちにまかされています。(校則は「鉄下駄の禁止」「授業中の出前禁止」「賭け麻雀の禁止」の3つだけという都市伝説?)

個人的には、中学生くらいになったら自分たちのルールは自分たちで決めてもらう方がよいと思っています。少なくとも過去の校則を生徒会で議論して撤廃を「子どもたちが決定」できた方がよいのではないでしょうか。

もちろん、それにはリスクも伴います。「そんなこといったら子どもたちは好き勝手するだろ!」「なにか問題が起きたらどうするんだ!」という声もあるでしょう。しかしそれって全く子どもたちを信頼していないということではないでしょうか?
何もかも決めてもらうのが怖ければ、一気にすべてを生徒主導にするのではなく、部分的にはじめて徐々に「生徒主権」の範囲を増やしていっても良いでしょう。

教師や親など大人がルールを決めるメリットはなんでしょうか。大人が管理しやすいからで、必ずしも子供たちのためではない部分もあります。逆にいえば、子供たちに任せると大人が管理しづらくなるので怖いし不安なところがある。大人にも覚悟が必要です。

慣れないルールづくりなので、ルールを決めた後でも問題が起こったり調整が必要になったり悩ましいことも起こるでしょう。しかしだからこそ、そうした「うまくいかなさ」とstruggleする機会を与えること自体が大事な教育ではないかと思うのです。


日本は(少なくとも今のところは)民主主義の国です。「自分たちで解やルールを決める」ことは民主主義を育てることであり、それが「社会との結び目をつくる」ことになると思います。

民主主義とは「自分たちが主体」ということです。誰かが決めてくれるのではなく。教育において「主体になる機会」を奪ってしまっては、社会に出ていきなり民主主義はできないでしょう。

日本は国際的にみて、非常に投票率の低い国です。そして日本の子どもたちの自己効力感は世界最下位レベルで低いと言われています。そこにあるのは、「やってもムダ」「変えられない」という諦念や冷めた感覚かもしれません。

「ルールは与えられるもので自分たちは関与できない」という状況が10年間続けば、諦念は強化され、染み付いてしまいます。昭和の時代、子どもたちにできるのは大人が決めたルールに従うか、反抗するかだけでした。しかし、「やってもムダ」「変えられない」ではなく自分たちでルールを作る経験が増えれば、変わるはずです

せっかく生徒会の「選挙」をするのであれば、それで選ばれた生徒会を通じて、生徒たちが学校のルールを見直したり、新しいルールをつくるために議論をする。「私が当選したあかつきには、髪型の校則を撤廃します!」と公約をかかげ、意味不明な校則を生徒たちが話し合い、変えていく。意見の対立がある中で、どうしたらみんなにとってよいルールになるか考える。そうした経験をするには数百人規模の「学校」という場は最適かもしれません。

自分たちが社会を変えていけるんだ、という経験をもつことで、教育と社会がもっとつながっていくのではないでしょうか。



すみません、ここまでで3,000文字を超えてしまいました…

最近COMEMOが長くなりがちなので、いったん前編をここまでとさせてください。

次回は、教育と社会との結び目を増やすために、②色々なコミュニティとのつながりを増やす、③働いて稼ぐ体験を増やす、について書きます。

→後編





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