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ポスト資本主義のための「嫉妬の経済学」試論 〜パートナーが他人と交わるの、許せますか?

お疲れさまです。uni'que若宮です。

最近、「嫉妬」について思索・研究を始めております。

というのも、資本主義からSDGsやポスト資本主義への移行を考えているうちに、「嫉妬」からの解放というOSアップデートが出来るかどうかが重要なポイントである気がしてきたからです。

もう少し研究したら「嫉妬の経済学」みたいな感じでまとめたいと思っていますが(興味ある出版社さん、ご連絡お待ちしてますw)、本日はそのさわりだけちょっと書いてみたいと思います。


まず、「ポリアモリー」についてどうぞ

「ポリアモリー」という言葉をご存知でしょうか?

ポリフォニー(多声音楽)やポリリズムなどにみるように「ポリpoly」は、複数性が共存していることなので、日本語に訳すと「多愛」みたいな感じでしょうか。多愛だと博愛主義みたいな感じもするので、「複数同時恋愛」っていう方が近いかもしれません。

「一途」が美徳とされ、「一夫一婦制」を基本としていた近代の恋愛・結婚感からすれば、「浮気」「不倫」と糾弾すらされかねませんが、ポリアモリーにおいてはパートナー・当事者のみなさんがそれぞれそのあり方を承認しているので、倫理的には問題がありません

しかし、です。ご自身に置き換えて考えてみてほしいのですが、「ポリアモリー」を受け止めるってなかなか胆力がいります。ちょっとあなたの愛するパートナーが誰か他の方と寝ているところを想像してみてください。あるいは今日の夜、パートナーから「ポリアモリーでいきたい」と打ち明けられるシーンを想像してください。…苦しくないですか?

この時、心臓をぐっと押し込むものが「嫉妬」です。ポリアモリーは「嫉妬」の事例として、現状の社会的関係においていちばんラディカルなものであるとおもうので、これとのアナロジーから資本主義を再考してみます。

↓の記事が面白いので最初に是非読んでみて、この先を資本主義/ポスト資本主義とモノアモリー/ポリアモリーとを対比しつつ進んでいただければと思います。


嫉妬の特徴① 「独占」の欲望

「嫉妬」がなぜ資本主義と関わるのか、というと資本主義は基本的に「独占」とexclusiveの論理で回ってきたからです。

以前、↓の記事でも書いたのですが、

「資本主義」が使われた最初期の事例であるルイ・ブランは「私が資本主義と呼ぶものは、ある者が他者を締め出す事による、資本の占有である」と述べています。

これはその企業が私欲にまみれているから、というのではなく、「経済的利益」を目指すと企業が構造的にexclusiveに向かう、という構造的な問題であり、それがSociety5.0が目指すInclusivityと背反してしまうのです。

ルイ・ブランがはやくも1850年に喝破したように、20世紀型資本主義には「資本の占有」という論理が入ってしまっているのです。

これは「モノポリー(独占)」という経営シミュレーションゲームに象徴されますし、パテント(特許)を取ることで他者がその技術を模倣できないようにしたり、企業間で契約を結ぶ場合には「exclusive」な条件を引き出せるとビジネス的には評価されるわけです。「独占的」な立場にあると有利に振る舞えるため、利益幅が大きく出来るのですよね。しかし一方で「独占禁止法」もあるように、独占は経済や社会の進歩にとってジレンマでもある。

イーロン・マスクが特許解放に踏み切ったように、社会の変化を大きく進めようと思えば自社独占は足かせになるところもあります。せっかく難病の新薬が発明されても、特許があるせいで、超高額になってしまい、本当に必要な人に届かなかったり…

これを解決するのがオープンソースですが、オープンソースはしばしば経済的に維持継続が難しかったり責任や権利の所在で揉めたりというジレンマもあります。発明者にちゃんと対価がわたることが担保されないと発明や研究という先行投資が報われず続けられないことになってしまうので、そもそもの源泉が枯れてしまいかねないですし。

しかし、本来こうしたexclusiveなlockを入れずとも適切にリスペクトをもって社会から感謝と報酬が得られるようになれば、exclusivityや特許は不要でしょう。

経済的な必要性によっても、必ずしも「独占」はマストではないわけです。「モノポリー」でなく「ポリポリ―」でいい。それでも独り占めしておきたい、というところには「嫉妬」という感情的なものがある気がします。

あなたが好きになった人がいるとします。その人は独り占めするには勿体ないくらいめちゃくちゃに素敵なのです。たとえば石田ゆり子さんくらいに。そんな素敵な人を果たしてモノアモリーの中に独占すべきでしょうか?


嫉妬の特徴② 「所有」の欲望

「独占」の次の資本主義の問題として、「所有」の欲望があります。

さきほど

そんな素敵な人をモノアモリーの中に独占すべきでしょうか?

と言いましたが、そもそも人というものは誰かが「所有」できるものではありません。だから「独占」なんて無理なんですよね。お互いの関係性の中で結ばれるタイミングやそれぞれの濃さはあるけれども、その人は社会に開放されている。

しかし、資本主義の中で組織の利益の追求がされるとき、人もまた「所有物」のように扱われがちです。

たとえば複業。「複業を禁止する企業は嫉妬深い彼氏といっしょ」という話をよくするのですが、社員を企業の所有物のように考え、その人の生活のすべてを管理し、他者との付き合いを禁じるのは、これはもう「嫉妬深さ」でしかありません。

小島雄一郎さんのいうところの「コワい嫉妬」に近い感情でしょうが、「ほかを知って他にいかれたら困る」という怖さの裏返しとして、自分の目の届くところに束縛したがる企業はまだまだ多いように感じます。

しかし、嫉妬で束縛してくるような彼氏と付き合いたいでしょうか。以前↓の記事でも書いたように、こうした企業とお付き合いしたいと思う人はこれから明らかに減ってくるでしょう。そして逆に、「あなたがしたいと思う通りどんどん他の人とも出掛けなよ」といってくれるパートナーとのほうが、一緒にいたいと思いません?(束縛が好き…という方もいますがそれはまあ性癖なのでよいとおもいます)

またこうした「嫉妬」とそれによる「束縛」は、過去優位な立場にある強者の人ほどやりがちだったりします。「お前他の男と飯食いにいったの?何?オレをなんだと思ってるわけ?別れてもいいんだけど?」みたいなことを「オレ様」ほどいいがちなのですよね。(企業の話です)

でもこれも「コワい嫉妬」の裏返しかもしれません。これって究極いうと自分の魅力に自信がないっていうことですよね。とくに過去の栄光で「オレ様」になっている人は時代が変わって自分の価値が下がってきていることが「コワい」ので余計そういうことをしてしまうのではという気がいたします。(企業の話です)


嫉妬の特徴③ 「競合」の欲望

こうした独占的所有から派生することとして、「競合」の欲望が生まれます。

「嫉妬」が起こるケースをスタディしてみると、実は「似たもの」にこそ嫉妬しちゃう、ということがあるんですよね。

たとえば、誰かが大成功したとしてそれがまったく関係のない海外のセレブリティとかなら嫉妬しないですよね?でも高校の時の同級生とかだとちょっと嫉妬しちゃったりする。自分でも本を出したりしていて、「別に部数とか気にしないでおこう」と思ってるんですが、時々なんか変な感情になりかける時があるよね。それってたとえば「アート思考」とか同じジャンルで本を出しているひとだったり、友人の「重版出来!」だったりする(苦笑)

なんで相手によって嫉妬するときとしない時があるのか?これ、不思議ですよね?

どうして近い人にこういう感情を抱くかというとやっぱり「独占的所有」がベースにある気がしてます。「自分がそこにありたいとおもっているポジションが一つしか無い」って思ってしまっている。まったくちがう人とだとそもそも椅子取りゲームにならないのだけど、似ているひとの場合、別の似た人がそこを取ると自分の席がなくなってしまうという気がしちゃう。

ほんとは席はひとりひとりあるし、取り合ってないし、無くなりもしないんですけどね。

こうした嫉妬とのアナロジーを企業について考えると、「競合」に思い至ります。以前こちら↓の記事でも書いたのですが、「競合」って実はめっちゃ同志なので、小競り合いしている場合ではないんですよね。

去年くらいから急速に「フェムテック」が盛り上がってきて、更年期に注目したサービスや事業も出てきています。そうした他社の登場に際し、僕たちは同じ領域の他社を「競合」と捉えて競争することを極力しないようにしています。

とくに0→1の黎明期からの市場創出型の事業の場合、小さな市場を食い合ったり牽制し合ったりするよりはまずはその市場や文化を広げるために「協力」していったほうがよいからです。

また「競合」企業というのは見方を変えれば、そもそも社会の現状について多くの人がスルーしている同じような問題に気づき行動を起こしている。これは紛れもなく「似たもの」であり、もっといえば数少ない「社会変革の同志」はないでしょうか。

いかがでしょうか?みなさんの企業では「競合」に「嫉妬」をもっていませんか?


「持続」と「嫉妬」の奇妙な関係

独占からコモンズへ。所有から共有へ。競争から共創へ。サステナビリティの観点からも今そうしたことが盛んに言われます。

ここでちょっと奇妙なことに気づきます。

というのは、「嫉妬」という感情は基本的に「持続」の欲望でもあるのです。誰か特定の人と、一時的ではなく長く共にある関係でいたい。「付き合う」とか「結婚」とはそういうものです。

そしてそのためにこそ家庭内(のみ)での「財産の共有」がされます。これは裏返すなら、ある種の排他性を生み出します。家庭内を特別な関係性にするということは、そこに「閉じる」ということだからです。ひとりとひとりが出会ってお互いの継続的な関係を望み、その間だけで共有的な関係を築くことは、「イエ」という単位で考えれば「独占的所有」をつくることでもあります。

「嫉妬」は「持続=サステナビリティ」とはどんな関係にあるのでしょうか。

企業の独占や所有の問題と同じように考えるなら、家族もコモンズ的な共有でいいはずです。独占的所有が前提となっているせいで「親ガチャ」があり、依存や虐待があり、女性の活躍が阻まれています。こうした「家庭のモノポリー」は社会全体としてはもはやマイナスの方が大きいのでは?という気もしてきます。

しかしそうはいっても、パートナーが多数の他者と交わる、ということをすぐに許容できるかというと簡単ではありません。「裏切られた!」そういう気持ちになったり、相手を糾弾し、二度とそんなことをしないように約束させたくもなるでしょう。

いえ、恋愛ではなくビジネスパートナーの話です。(笑)

企業や業界でもいまだに「裏切り者」「干す」みたいなことってありますよね。でもそれってサステナブルなのでしょうか?共存共栄していけるのでしょうか?


「持続する」ということは本来、「変化する」ことを前提にしています。そこには沢山の小さな「おわり」があり、関係は変わっていくからこそ続いていく。

20世紀型の資本主義において、企業は「独占的に」「所有し」「競合し」、自社が「持続的に」繁栄することを目指して来ました。そのために利益を拡大しようとからだを大きくし続け、結果として、排他や搾取の構造を生んできた。しかし、そのやり方では自社は持続的でも社会全体は持続的ではない。

資本主義のひずみを見直し、新しい社会との関係性にアップデートしていくために「嫉妬」をどうアップデートできるのか?今回を「嫉妬の経済学」試論とし、引き続き研究と思索を重ねてちょくちょく発信していきたいと思います。


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