見出し画像

日本がダメになったたったひとつの理由「引退しないニッポン」(上)

日本がダメになった理由は、いろいろとあげることはできるのだが、たったひとつをあげるとしたら―50歳を過ぎても引退しなくなったこと。本当はみんな分かっているのに、知らないフリをしている。


時代が変わっているのに
時代にしがみついている


60歳台はおろか、70歳台に、80歳台になっても、現役社会に居座りつづけ、若い人たちの出番をおさえつけ、日本をダメにしてしまった。かつて日本には隠居制度があった。それで、家を、店を、藩を、幕府を承継してきた。それがなくなった。

1 日本がダメになった理由は、たったひとつ

時代が変わっても、なおもその人がそこで主役でありつづけようとすることが、どれだけ弊害が大きいだろうか?
 
野球の選手もサッカーの選手も、みんな、引退する。過去にどれだけ素晴らしい成績をあげていたとしても、現在のチームで戦力になっていなければ、チームの勝利に貢献できなくなっていたら、引退させられる。そうしないと、チームは強くなれない。スポーツの世界では、引退が当たり前である。にもかかわらず、スポーツ以外の社会で

引退・隠居がなくなり
日本がダメになった

昔、家(イエ)には、家長がいた。家長は必ず引退して、家督を譲った。経済的措置を行い、隠居部屋に移って、隠居として生きた。江戸時代、歌川広重は26歳で隠居して、後世、世界で評価される浮世絵師になった。松尾芭蕉は36歳で隠居して、奥の細道など、現在でも愛誦される俳句を残した。伊能忠敬は49歳で隠居し、測量技術にもとづく本格的日本地図を残した。
 
現在、社会に、この引退・隠居の仕組みが弱くなった。引退しないで、70歳台、80歳台になった高齢者たちが、これだけデジタル技術が進んだ社会にもかかわらず、影響力を及ぼそうとしている。40年も50年も前に学んだ学生時代の知識やスキル、世界観で、メタバースを理解しようとするから、おかしくなる。土台、無理。


引退すべき時に引退しなくなって
おかしくなった

戦後、ベビーブーマーである圧倒的ボリュームゾーンである「団塊の世代」は、年齢を重ねるごとに、日本社会の消費経済を変えた。、小学校の教室が足りなくなり、受験戦争が激しくなり、就職戦争が激しくなり、出世競争が激しくなり、配偶者争奪戦が激しくなり、3種の神器「3(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」)を買い、新3種の神器(カラーテレビ・クーラー・カー)を買い、子どもを育て、家を建て、子どもの塾に通わせ、子どもの受験、子どもの就職、子どもの結婚、孫の面倒、国内外の観光に行って、身体のあちこちが病気になって病院に行って、デイケアに行って、施設に入り…圧倒的なボリュームゾーンである団塊の世代が、ライフステージを移行するごとに、日本社会のなかで新たな制度とマーケットを創りつづけている。生まれてからずっと日本の中心であった団塊の世代が、75歳に入ろうとしている。そして


「人生100年」と言い出して、さらにおかしくなった


100歳まで生きるのだから、60歳なんて、現役真っ只中。60歳で現役引退なんて、論外だ。70歳でも早い。100歳まで、まだ30年もある。80歳でも、まだまだ。このように高齢者が引退しなくなって、どんどん現役社会が老人大国となって、若い人たちの本来の居場所がなくなった。このままでは、 いつまでも、出番がまわってこない。


2 Jリーグが50歳で固められていたら

なにが日本社会を閉塞させているのか?日本社会を弱くしているのかの根幹はなにか?

引退・隠居という制度がなくなったことで

日本が時代についていけなくなった。国会議員や企業トップだけではない。大学の先生も、65歳のみならず70歳になっても、現役。そういうのは、

 
「老害」というよりも、無理なのだ


とりわけ理系。科学技術は刻々と進化している。大学は専門分化した学科の教授に就任して、30年以上もその研究室で力を持ちつづけていたとしたら、学生が時代に取り残されるのは、当然。世界の流れ、世の中についていけなくなるのは、必然。
 
一方、欧州はどんどんリーダーが若くなっている。欧州に年寄りはいないかといったら、どっさりいる。みんな、引退している。引退したら、現在のリーダーのいうこと、やることに口をださない。引退したら、なにもしないのではない。社会のなかで引退の役割がある。その分を果たしている。

産業界のリーダーに対する「年齢」についての先入観が、日本社会を閉塞させている。177年前の明治維新のリーダーの多くは20歳台30歳台で、みんな、若かった。30歳台の大久保や20歳台の伊藤などにクーデターを起こされ、幕府はひっくりかえった。

明治維新だけでない。明治・大正・昭和の初期も戦後も、社会のリーダーたちは若かった。令和時代だからできないということはない。20歳台30歳台が頑張って、社会や会社を変えることができないとはいえない。年齢についての先入観や見くびり、チャンスを与えないという考え方は、過去もそうだったわけではない。明治維新のリーダーはみんな若かった。

note日経COMEMO(池永)「侮る日本。先入観に凝り固まった日本人(上)」

現代ニッポンは、そうではなくなった。節操がなくなった。世界企業になった日本企業も、そう。70歳台、80歳台の経営者、最高幹部がどっさりいる。しかし戦後はそうではなかった。たとえばホンダの創業者

本田宗一郎さんは50歳で辞めている
 

トヨタも、すぱっとリーダーを替えている。60歳までに引退して、交代している。トップは若い。そういう会社もある。
 
引退して、なにも残さなかったわけではない。若くして引退した本田宗一郎さんの「マインド」「イズム」はホンダのコンセプトとなり、現在も、ホンダのDNAとなっている


そんな事例は日本にもあるが
日本はそれを特別扱いにして学ばない


「50歳・55歳で引退」などというと、こんな不確実な時代を乗りきるためにはそんなに早く引退などできない。本田宗一郎さんの時代と違う、ブラックスワンが多発する時代だから、若いものには任せられない。こんな時代は経験豊富な私にしか経営できないと、居座る


みんなには定年を強制するが
自分はトップのまま居座る

若いものには任せていられないと、いつまでも権力を譲らず、高齢経営者が長期政権をつづける会社が増えて、日本はおかしくなった。
 
もしサッカーのJリーグが50歳台でイレブンをかためてサッカーをしていたら、どう思うだろうか?甲子園に40歳台の高校生が現役で出場していたら、どう思うだろうか?毎年毎年、メンバーが替わり、新陳代謝するから、Jリーグも甲子園も盛り上がる。大学も3年生か4年生で引退する。それをしないと、いつまでも1年生、2年生の出番がない。出番がないなら、その学校に、高校生が入ってこなくなる。そうなると、


強豪校といえども、いつか弱くなる。
これと同じことが社会で起こっている 


引退後の生活は、大変。引退後の設計はちゃんとしないといけない。しかしその絵を描いて全体の底上げをしないと、組織は持続できない。それが大変だからといって、いつまでも引退しないで現役にしがみついていくと、組織はいつか弱くなり、いつか消える。

3 節度・始末ある区切りがつけられていない

                                     
 「技術の伝承 」という言葉 が組織のなかを飛び交いだして、どれだけ経ったのだろう。この言葉には、正しい面と正しくない面がある
 
若者には経験がない。自ら、現場を踏んで、ノウハウを積んでいく。それはベテランもたどったプロセスでもある。職場のノウハウは、職場の先輩が後輩に伝えるものである。学んだ後輩は、今度は、新たな後輩に伝えた。そうして組織を維持・発展させてきた。このように職場内で、数珠繋ぎのようにノウハウを伝えてきたにもかかわらず、後輩たちが頼らないからと言って、引退もせずに、自分のいた職場に残り、自分にしかできないというノウハウを若い人に伝えるという人が増えているが、それよりも


若い人自身で、ノウハウを積んだらいい
 

と突き放すのがいちばん成長する。そもそも、そうなるまで、自分しかできない技術やスキルを現役時代に、若い人に伝えられなかった、仕事を見える化して後輩たちに残さなかったことが課題である。

役職引退後も、退職後も、同じ職場にいて、いつまでも居座り、かつての部下をいつまでも部下のように扱いだすようになり、さらにおかしくなった。このように始末・節度ある区切りがつけられなくなったことが、日本社会が弱くしている大きな理由

日本で若者が起業したり経営者になりにくいのは、日本社会が若者を侮ったり、年輩者が自分の身を守ろうとする年功序列システムがひとつの要因。
若者が社会を知らなかったり経験がないのは当然であり、ベテランが世間を知っていて経験が豊富とは限らない。この年齢での失敗は具体のマーケットで是正されるが、そもそも「若者は不安定で、年輩者が安定している」といった年齢観・空気観は社会を閉塞させる。

たとえば若者が突飛な言動をするとする。そんなことでは社会から受け入れられないことを理解すれば、若者はおのずと自覚したり見直したりして、適切なところにおさまる。
にもかかわらず失敗を恐れて、年輩者は若者を見下してチャンスを与えない。チャンスが与えられなかったら、成功も失敗の経験もない。可能性が消える。こうして社会から活力が奪われていく。

note日経COMEMO(池永)「侮る日本。先入観に凝り固まった日本人(上)」

いい加減、若い人にバトンタッチしようではないか。アニメで育って、オタクカルチャーに夢中になって、コスプレして、ゲームをして、喜んでいる人に、社会を預けたらいい。そういう奴らには渡してはいられないといっている限り、日本は強くなれない
 
世界の若い人たちが、日本のアニメに憧れて来ていただける。にもかかわらず、日本に来たら、世界的に評価されている日本のアニメやオタクが日本ではサブカルチャー扱いで、メインストリームではないことに驚く

かつてロックが流行したとき、1950年後半から1970年後半、不良の音楽だとか、ロックなんてロクでもないと言われた。そのロックで育った人たちが、年寄りになって、そのロックが文化的な扱いになっている。そんなものである。日本文化の代表とも言われる歌舞伎も、江戸時代に登場したときは、常識はずれのエキセントリックな服装や行動で人々の注目を浴びようとするパフォーマンスだった
 
それと同じ。アニメで育った人たちが年齢を重ねていくと、アニメの社会的位置づけが変わる。まして30年前や20年前とは、時代速度は違う。何十年も、待ってはいられない。変えなければならない。それが変えられないのは


年寄りが現役から引退しないからで


そうしないと、いつまでも日本は世界に取り残される。もうひとつ、大事な問題がある。日本の社会は、かつてのような「ひとつ」の社会ではなくなっている。


世代ゾーンでシェアされる
3つくらいの社会が重層化している


にもかかわらず、高齢者たちが日本のすべてを支配しようとしているが、そんなことは土台できない。これも、日本がダメになった理由。このことは、次回、考えたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?