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ハイブリッドというカタチへ—よく分からない時代(最終回)

チャットGPTは、赤ちゃん。まだまだ未完成。いっぱい栄養を与えてあげたら、すくすく育つ。あまり栄養を与えないと、育たない。お母さん、お父さんになったつもりで、チャットGPTを育ててあげないといけないと、友人のAIの学者がいった。

どこまでいっても、使う人次第。チャットGPTの「チャット」に意味がある。対話するあなた次第で、大きく変わる。技術、道具は使う人次第で、良くも悪くもなる。このAIを研究している大学教授の友人の言葉で、西郷隆盛のことを思い出した

坂本龍馬が西郷隆盛と初めて会った感想を、勝海舟にこう告げた

「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘にたとえると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だと思います、ただ、その鐘をつく撞木が小さかったのが残念でした

「竜馬がいく」(司馬遼太郎)


1 電気自動車じゃないと、ダメなのか?

日本の自動車メーカーの電気自動車へのシフトが弱すぎるとの論調が日増しに高まっている。中国での電気自動車の販売台数が急増しており、中国でのモーターショーは電気自動車一色。これからの時代は電気自動車だ。しかしそれは本当?世の中で、中国以外で、どれだけの電気自動車が売れているのか?道路には、電気自動車以外のいろいろな車が走っている

なぜ電気自動車なのか?環境のためだ、SDGsのためだというが、それは本当?電気はクリーンだというが、それは本当?電気をつくるソースもプロセスはいろいろ。いろいろな電気がある。

モノも、そう。ものは、「つくる・はこぶ・つかう・はいきする」という一連の流れ全体がものづくり。ある部分をひとつ取り出して、「それで、すべて良し」とは限らない、全体で捉えないといけない

EUもいろいろ。すべて電気自動車でないとダメという流れが変わってきた。エンジン車も合成燃料利用で認めるというように。すべてがそうなるということではない

YESかNOかではない。YESでもNOでもある。YESとNOの真ん中もある。日本文化にはウチとソトがある、ウチもソトもあり、ウチとソトの真ん中という感覚・精神性がある。それがウチかソトかどっちかを選べとなり、ウチとソトの真ん中もある、そこに意味があるという意識が薄れつつある

「ウチとソト」の感覚が日本人にある。日本人には、「ウチとソト」とともに、ウチでもないソトでもない「まんなか」を意識する。日本住宅でいえば、縁側や縁台や土間や中庭や路地(ろうじ)が、ウチでもソトでもない空間であり場所であり、その場所でウチとソトのバランスをとった。カタチあるものもあるが、結界のように目に見えないカタチのないものもあった。物理的でもあり、精神的なものでもあった。そのどちらでもない「まんなか」が、日本住宅からなくなっていった。

ウチでもないソトでもない、そのどちらでもない場所だからこそ、ウチが理解でき、ソトが理解できて、それぞれが深められた。そういったことを大事にしてきた日本人は、「ウチでもないソトでもないまんなか」を「陰陽融合」や「塩梅の妙」などとともに、どこかに置き忘れてきてしまった。そして、コロナ禍となった。

note日経COMEMO(池永)「コロナ禍後社会キーワード⑥「陰陽融合」」

2 どっちを選んだらいいのか分からない

YESかNOか、マスクをつけるかとるか、行くべきかとどまるべきか、リアルかバーチャルか、出社か在宅勤務か、対面会議かオンライン会議か、この会社に残るべきか転職すべきか、大学にいったほうがいいのか別の道を歩いた方がいいのか、この会社に入っていいんだろうか別の世界に向かったらいいのか、コロナこれからどうなるの、ウクライナ紛争これからどうなるの?

これからどうなるのか、分からない

日本はいつからか「二項対立」で考えるようになった。集中と分散、全体と部分、形式と実質、抽象論と具体論、都市と郊外、ジェネラリストとスペシャリスト、ハードとソフト、リアルとバーチャル、専門と一般といったように、「二項対立」で物事を捉えるようになった。

それは物事の思考幅を広げることにつながるが、単純な裏返しで捉えたり、AがダメならばBという代替論に陥っていることが多い

note日経COMEMO(池永)「コロナ禍後社会キーワード⑥「陰陽融合」」

と書いて、3年が経った。マスクを少しづつ外しだす人が増え、街に出てくる人が増えた。家の内から外にでてくる人が増えた。観光地を国内観光として訪れる人も多いが、世界から日本に来られる人も多い。コロナ禍前よりも、滞在日数が延びている。なぜか?

日本に滞在しながら、
オンラインで仕事をしている人がいる

コロナ禍前にはなかったスタイルで、日本人も世界に観光をしながら、オンラインで仕事をしている人もいる。2月にイタリアを旅していた私も、そうしていた。イタリアから日本の会議に出席していた、あたかも家から出席しているように。いわゆるワーケーション。バケーションをしながらワークをする

ながらである。何々しながらである


それまで育児や介護といった特例措置だった在宅勤務が、コロナ禍で強制的に在宅勤務となり、さらに働く場所が家以外も可能となるテレワークとなった。会社以外で仕事をするようになった

3年前に出社とテレワークが混在するというハイブリッド勤務がはじまった。今日は会社、明日は会社以外と。個人としてハイブリッド勤務となり、組織全体もハイブリッド勤務となった。すると、どういうことがおこっているのか?

3 シュレーディンガーの社員

ある時間を切り取ったら、その時間、みんなが仕事をしているのか仕事をしていないかがわからないようになった

組織のみんなが会社で一緒になって仕事するという場面が減っていった。今というこの時間に、会社のみんなが、どこにいるのかが分からなくなり、ぞれぞれが何をしているのかが観察できなくなり、働いているのか働いていないのか分からなくなった。そして


シュレーディンガーの社員となった

これはどういうことだろうか?
これまで「管理」をしていた人が、テレワークになってからも、部下が仕事しているのを「管理」しようとしているが、「管理」しなければならない自分の目の前からみんながいなくなり、これまでのような「管理」ができない。「管理」する自分も会社にいるときもあるし、会社以外にいるときもある。これまでよりもぐっと疲れる、どうしたらいいのかを悩む

こんなこともある。部長や課長がお客さまから、この資料の詳細を教えてほしいとか、すぐに見積もりを出してほしいと、お客さまから連絡をうけて、そのとき自分の部下全員がシュレーディンガーの猫状態だったら、どうなる?


だったら、自分でする


ことになる。自分のことは自分でコントロールできるが、部下がシュレディンガーの猫状態になっていて、家にいるのか家以外の場所にいるのかどこにいるのかが分からない、働いているのか働いていないのかわからない

部下に連絡したいと思ったその時間、部下が仕事をしているのかしていないのか、仕事がオンなのかオフなのか分からない。しかし電話をしたら、あっ出た、いたと確率的に電話に出たっていう状態になっている。それは部下からも、上司が仕事をしていたことが分かる。そういうことがおこっている

コロナ禍がさらに収まったとしても在宅勤務・テレワークをやめて、すべて出社勤務にする、コロナ禍前のスタイルに戻す会社は少ないだろう

大半の会社は出社勤務とテレワークが混在するハイブリッドなスタイルが普通になっていくとすると、シュレーディンガーの猫状態が普通になっていく。すると


これまでのような
組織やチームワークは成立しなくなる

4 ハイブリッドというカタチ

コロナ禍3年が経った現在、このようなシュレーディンガーの猫、シュレディンガーの社員になっている。

コロナ禍を契機にテレワーク時代となって、自分にとって、会社における時間と場所革命がおこっている。根本的に、仕事の定義が変わっている。にもかかわらず、これまでのような仕事法と組織管理、組織運営法で、会社をまわそうとしている。すると、どうも違和感がある

その場に、一緒にいて、目の前にいる人だったら、その人がリーダーだということは確定して、そのリーダーのもとで、なにかをすることはできる。しかしテレワークをしている時に、シュレーディンガーの猫だらけの仕事の時空間では、これまでの管理をするリーダーは成立するかというと、しない

シュレーディンガーの猫は、物理学的実在の量子力学的記述が不完全であると説明するための思考実験。猫は絶対的に存在しているが、その猫が生きているのか死んでいるのかはフタを開けるまで分からないということが起きてしまうことが確実だったら、生きているか死んでいるのかは2分の1の確率の状態の猫が存在していることになる

シュレーディンガーの猫状態だと、社員や部下の信頼性や評価は、フタを開けたときにしか決まらないこととなる。これまでの人事考課、報酬決定のまま、結果主義 が徹底されれば、シュレーディンガー社員は、 箱のなかで常に生きる努力をすることになる

そうなっていくと、テレワークと出社勤務で、仕事のプロセスが見えなくなって、答えだけがやりとりされることになる。パソコン・スマホで検索して瞬時に答えがでて、インプットからアウトプットにいたるプロセスがブラックボックスになったように、仕事もそうなるかもしれない

リーダー自身もシュレーディンガーの猫である。部下がリーダーに話をしようとおもっても、リーダーが仕事しているのか仕事をしていないのかが分からない状態で、リーダーがオフタイムだったら決めたいことが決まらない。同じところに一緒にいるという状態では確定的だけど、一緒にいなければ社会的なことは何ひとつ確定ではなくなってしまう。

いままでの組織・方法論だと、そんな世界にどんどん向かっていく。だからテレワークがダメだというのではない。メリット・デメリットがある。むしろデメリットを補ってあまりあるメリットがある。どうしたらいいのか

テレワークと出社勤務の「ハイブリッド」というカタチとはなにかを考える。テレワークか出社かではなく、テレワークと出社がともに存在していること、仕事のカタチがなにを生み出すことができるのかを認識することが大事である。これまでのような組織や仕事の進め方やコミュニケーションのままならば、不整合がおこるのは必然である。このハイブリッドの勤務で確実なことは

現場・現物・現実を中心に据えること

出社とテレワーク、リアルとオンラインを融合した新たな仕事法で、「現場・現物・現実」を捉え、これまでの出社スタイル以上に、生産性のみならず、創造性を高める。テレワークと出社勤務の「ハイブリッド」を、これまでの仕事の進め方とはまったく違うものと捉え、仕事法とコミュニケーションとそれを実現する組織を新たに創りあげていくことが求められている

すでにそう転換している会社と、みんな出社勤務に戻ろうとしている会社がある。そんな岐路に、我々は立っている。それを乗り越えると、大きく飛躍できるのではないか。



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