「全社員ジョブ型」に問われる覚悟
昨今、「ジョブ型」の人事制度を標榜する企業が出始めている。
その背景には、グローバル化やデジタル化が進む現代社会において、企業競争力を高めていくために、年功色の払拭や、専門性の向上、会社間の人材の流動性を高めていく等の狙いがあるという。
今回は「ジョブ型」「メンバーシップ型」という言葉の生みの親である濱口桂一郎氏の『ジョブ型雇用社会とは何か』を中心に、幾つかの参考文献を踏まえながら、会社が「全社員ジョブ型」に変えていくことで、個人や会社、社会にとって、どのような覚悟が必要になるのかを考えてみたい。
「ジョブ型」とは何か
最近になって新しい人事制度として喧伝されている「ジョブ型」だが、そもそも「ジョブ型」の歴史はとても古い。
登場した順番だけを見れば、産業革命以降、先進産業社会における会社の基本構造はずっと「ジョブ型」で、むしろ、戦後の日本で拡大した「メンバーシップ型」の方が、ずっと新しい雇用システムだという。
改めて、「ジョブ型」「メンバーシップ型」の本質的な違いは、職務と人間のくっつけ方にあると濱口氏は指摘する。
日本以外の社会では、労働者が遂行すべき職務(job)が雇用契約に明確に規定されます。ところが、日本では、雇用契約に職務は明記されません。あるいは、明記されるか、されないかというよりも、そもそも雇用契約上、職務が特定されていないのが普通です。どんな仕事をするか、職務に就くかというのは、使用者の命令によって定まります。
(中略)
この点を私は、日本の雇用契約は、その都度遂行すべき特定の職務が書き込まれる空白の石板であると、その特徴を捉えました。そして、日本における雇用の本質は(job)ではなく、会員/成員(membership)であると規定しました。
つまり、日本のような「メンバーシップ型」社会では、「人」に「職務」をくっつけていくのに対し、それ以外の「ジョブ型」社会では、まず最初に「職務*」があって、そこに「人」をくっつけていく。
*ここでいう「職務」とは、簡単に人に切り貼りできるような「役割」「タスク」のことではなく、固定化されたポスト(アソシエイト、サブリーダー、リーダー、etc...)のことを指す
そして、こうした違いから「雇用」「賃金」「教育」といった、会社のしくみにも違いが生まれてくる。
まずは「雇用」のしくみについて。
「ジョブ型」では、職務を特定して雇用するため、職務(ポスト)の数に合わせて、特定の職務を遂行できるスキル・経験・資格などを持つ人を採用し、職務(ポスト)の数が減ったり、なくなったりすれば、雇用契約を解除するというのが自然な流れになる。ある特定の職務に限定して採用している以上、会社側はその特定された職務以外の労働を命じることはできず、社内の異動によって雇用を維持するという方法は使えないからだ。
一方「メンバーシップ型」は、そもそも職務が特定されていないため、採用では、特定の職務を遂行できるスキル・経験・資格を持つ人よりも、これからどんな職務でも覚えられる若くて活きのよい人がいい、ということで新卒一括採用が主流となる。また、もし社内で特定の職務がなくなっても、強制的に他の職務に異動させて雇用契約を維持することができるため、誰かが辞めても玉突きで人事異動させ、最終的に空いた組織の末端に新卒社員を採用すれば、それで組織を回すことができる。もちろん、その裏返しとして、職務の異動可能性がある限り、解雇の正当性が低くなるという側面もある。
次は「賃金」のしくみについて。
「ジョブ型」は「職務」がすべての中心にあるので、基本的には、どんな職務をしているかにもとづいて賃金が決まる。つまり、賃金の値札は、「人」ではなく「職務」についている。そのため、同じ職務に従事しているかぎり賃金が自動的に上昇することはなく(実際には熟練に応じて賃金額が上昇し、それは勤続年数にある程度比例するが、賃金決定の原則が職務にある、という点は変わらない)、またごく一部の上澄みのエリート層をのぞけば、人事考課はないのが当たり前だという(一部のエリート層の人事考課は業績評価、つまり成果評価になる)。そもそも特定の職務を遂行するスキルや経験・資格を持っているかを判断したうえで採用され、その職務についた値札で賃金が決まっているため、余程のことがないかぎり、1人ひとり査定することはない。
一方の「メンバーシップ型」は、そもそも契約で職務を特定していないため職務に基づいて賃金を決めることはできない。また、無理に職務で賃金を決めてしまうと、高い賃金の職種から低い賃金の職種に異動させることもできなくなってしまう。そこで、職務とは切り離した「人」基準で賃金を決めざるを得なくなる。つまり、値札は「職務」ではなく「人」につく。では、どうやって「人」の賃金を決めるのか。ここで「業績(成果)」「能力」「情意(やる気)」といった要素が出てくるのだが、そもそも全社員が査定の対象となっている以上、業績(成果)評価を厳密に行うことは難しい上、そもそも何の経験もない素人を上司や先輩が鍛えながら仕事を進めていくため、個人レベルの業績評価にはあまり意味がないことが多い。「能力*」「情意(やる気)」も主観的な要素が強いため、結果的に、唯一の客観的な指標である「年功(勤続年数、年齢)」の要素が強くなる傾向がある。
*契約の時点で職務が特定されていないため、実際に従事する具体的な職務とは切り離された「いかなる職務でも遂行できる潜在能力」のことを指す
最後は「教育」のしくみについて。
繰り返しになるが「ジョブ型」の社会では、「職務」があって、それを遂行できる人を採用する。よって、労働者は採用される前に特定の職務について教育訓練を受けていることが前提となる。そのため「ジョブ型」の社会では学校を含む公的・私的教育訓練機関が重要になる。具体的には、教育機関の授業の中での企業実習や、学生個人による企業実習(インターンシップ)、公的機関による企業実習(見習い訓練)などが挙げられる。アメリカの場合は前二者が主であり、欧州の場合はすべてそろっている国が多いとされる。企業内に職務がなくなった場合も、労働者はその職務を必要とする他の企業に雇われるか、企業外の公的私的な教育訓練を受けて新たな技能を身につけた上で、その技能を活用できる企業に雇い入れられることになる。
一方、「メンバーシップ型」の場合、そもそも契約時点で職務を限定していないため、雇い入れられる前に特定の職務についての教育訓練を受けるのは難しい。そこで「メンバーシップ型」では、会社に入社した後に企業内で教育訓練を受けることになる。定期人事異動と職場ローテションを繰り返し、実際に業務をしながら指導を受ける職場OJTによって技能を高めていく(もちろん、階層別研修などの座学もあるが、Off-JTだけで仕事を覚えるのは現実的に無理がある)。
さて、ここまでは「ジョブ型」「メンバーシップ型」のそれぞれの特徴を見てきたが、ここからは以上を踏まえて「メンバーシップ型」の日本企業が「ジョブ型」に大きく舵を切っていくと、個人、会社、社会のそれぞれがどのような覚悟を持つ必要があるのか考えてみたい。
個人に問われる覚悟
完全に「ジョブ型」の社会で働くことになれば、個人も、これまで「メンバーシップ型」で受けていた恩恵を手放す覚悟が必要になる。
まず「雇用」という観点では、若者の入職の難しさが挙げられる。
「ジョブ型」の会社は基本的に、特定の職務(ポスト)だけができればいいという人を採用するため(一部の幹部候補生や、不人気企業・不人気職務の応募でもない限り)社会人経験もなく何のスキルもない、年齢が若いだけの人を採用するメリットは薄くなる。
そういう意味では「新卒で年齢が若い」というだけで、企業が有難がって採用してくれる「メンバーシップ型」の社会は、雇用という観点では、若者にとって優しい社会と言える。
実際、日本は世界的にみても若者の失業率が低い。
つまり、もし日本中の会社が「ジョブ型」に移行していくとなれば、若者たちは、簡単に入職できなくなることを覚悟しなければならない。
また「賃金」「教育」という観点では、「誰でも階段をのぼっていける」という感覚を捨てる覚悟が必要になってくる。
「メンバーシップ型」であれば、会社のために長期間働いていれば、「職務(ポスト)」に関係なく、誰でも(査定による差はあるにせよ)ある程度までは昇給してくことができたし、職務が限定されてないがゆえに、会社に入ってからもチャレンジングな業務を次々と渡され、職場の中で鍛えられていくことで、誰でも少しずつ自分のスキルを高めていくことができた。
しかし「ジョブ型」に変われば、職務(ポスト)が変わらなければ大きく昇給していくこともないし、契約の時点で職務が限定されているため、一部のエリート層以外はグレードの高い職務を経験する機会すらなく、一生同じ仕事を同じお給料で遂行していくことになる。
たとえば欧州では、学歴と専攻に従って公的な職業資格が与えられ、それにふさわしい仕事に入職するという。経理事務の仕事に就職したとすると、その人は基本的にずっと経理事務の仕事をやり続け、それより難易度の高い決算の統括や計数管理は、大学などでその業務を学んだ人が就く。また、それより難易度の高い経営管理などの仕事は、グランゼコール(大学よりむずかしいエリート養成機関)や大学院などでそれを学んだ人が仕事に就く。
このように欧州ではどの国でも「学歴×職業×資格」という関係が存在しており、その職業にふさわしい教育を受けていなければ、そもそも特定の職務に就くことができない。つまり、会社に入りさえすれば、誰でも階段をのぼっていける、という幻想を捨てる覚悟が必要になる。
会社に問われる覚悟
次は、会社側に問われる覚悟を見ていきたい。
「ジョブ型」に切り替えていくとなったときに、会社に問われる最も大きな覚悟は「人事権の縮小」である。
特定の職務(ポスト)に限定して雇用するということは、先述したとおり、強制的な人事異動ができなくなる、ということだ。
これまで職務を限定せず、会社の一員として契約していたからこそ強制的な人事異動が可能だったのであり、職務を限定して雇用するとなれば、会社都合による異動は、原則としてできなくなる。
つまり、本気で全社員を「ジョブ型」に変えていくとなれば、会社は強力な人事権を手放すことを覚悟しなければならない。
社会に問われる覚悟
そして、会社が本気で覚悟を決め、「全社員ジョブ型」を推し進めていくことになれば、それは会社だけの問題ではすまなくなる。
というのも、会社の雇用システムは、国の雇用政策や社会保障、教育システムとも大きく関わっているからだ。
先述したとおり、「ジョブ型」の社会では若者の雇用問題が起きやすい。
つまり、本気であらゆる会社が「全社員ジョブ型」に切り替えていくことになれば、国は若者雇用対策を強化していく必要が出てくる。
また賃金についても、これまでの日本社会において、職務と関係なく年功に比例して上がっていくというしくみは、「家庭生活の保障」という意味合いを持ってきた。
多くの場合、人は年をとればとるほどに、子どもの教育費や住宅費など、よりたくさんのお金が必要になる傾向がある。しかし、職務給が原則の「ジョブ型」の社会では、年齢が上がっても、職務(ポスト)が変わらなければ給与が大きく上昇していくことは基本的にはない。
では、生活や子育てにかかるお金をいったいどうやって賄っているのかというと、政府が「社会保障」という形で担っているという。ある時期以降、フラットな賃金カーブと必要な生計費の隙間を埋めるため、手厚い児童手当や住宅手当が支給され、教育費の公費負担や公営住宅も充実している。社会のどこかが支えなければならない以上、企業がカバーできない部分は、本来、公的に対応せざるを得ない、というわけだ。
もちろん、日本でもその現実は認識されており、1960年代に「ジョブ型」に舵を切ろうとしていたときには、政府も児童手当をはじめ社会保障制度の拡充を政策方針に盛り込んでいた。しかし、経済成長期に日本の会社のしくみが国内外から賞賛されたこともあり、年功賃金は能力主義と名前を変えながらも、実は生活給としての機能を残したまま、1人の成人男性が妻と子どもを養っていくために必要なだけのお金を賄ってきた。
政府からすれば、育児、教育、住宅といった費用を負担せずに済むため、余計な支出が節約できるということで、こうした家庭生活の保障は会社に任せる方向に少しずつ移っていった。
つまり、もし日本の会社が職務給に変え、一斉に年功賃金を手放すという話になれば、それは同時に、政府が社会保障制度のあり方も見直していかなければならない、という話にもつながっていく。
そして最後に「教育」について、先述したとおり、日本以外の社会では、会社に入る前に職業教育を受けるのが一般的で、大学や高校といった教育界も職業との間に密接な連携が見られる。
もちろん、日本にも職業高校があるし、大学も職業教育機関としての性格を持っている。しかし、高度経済成長以後の日本は、学校教育における評価基準が一般学術教育に偏り、職業という観点が軽視されてきた歴史がある。
一応、公的職業訓練も存在しているが、依然として職業教育訓練は圧倒的に入社後の育成に依存しているのが現状である。
大学側からすれば、大学とは「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする(学校教育法第八三条第一項)」のであるから、「職業訓練校のようなものにしてはならない」という考え方が根強く、また企業側からすれば、どうせ職務を限定せずに採用するのだから(会社に入ってからいろんな仕事を覚えさせるのだから)、学校でどんなことを学んできたかなど関係なく、企業内職業訓練に耐えうる地頭等、素材としての能力が高い人を採りたい、という方向に流れていくことになり、偏差値という一元的な序列で評価する慣行が確立してしまった。
実は、この教育訓練システムについても、日本で「ジョブ型」への転換を叫ばれていた1950~1960年代までは、公的人材養成機関を中心におく構想があり、1963年の人的能力政策に関する経済審議会答申では「職業に就くものはすべてなんらかの職業訓練を受けるということを慣行化する」という目標が掲げられていた。しかし、1973年のオイルショックを契機に政府の方針は、社会的通用性のある公的人材養成ではなく企業内人材養成に財政的援助を行う、という方向に大きく舵を切り、その後も(部分的な変化はあるものの)教育と職業の隔たりは埋まっていない。
つまり、もし会社が本気で「全社員ジョブ型」に舵を切っていくということになれば、教育システムもしっかり連携して変えていく必要が出てくる。
公明正大であり続ける覚悟
ここまで見てきたとおり、多くの会社が、本気で「全社員ジョブ型」に変えていくということになれば、個人、会社、そして社会にまで大きなインパクトを与えることになる。
忘れてはならないのは、「メンバーシップ型」には「メンバーシップ型」のメリット/デメリットがあり、「ジョブ型」には「ジョブ型」のメリット/デメリットがある、ということだ。
濱口氏は次のように言う。
このジョブ型、メンバーシップ型というのは、言葉自体は私が作った言葉ですが、概念自体はそれ以前からあります。これは現実に存在する各国の雇用システムを分類するための学術的概念です。学術的概念ということは、本来、価値判断とは独立のものです。つまり、先験的にどちらが良い、悪いという話ではありません。
どんな会社のしくみにも、必ずトレードオフが存在する。
大事なのは、あるしくみの良いところばかり、あるいは、悪いところばかりを見ようとするのではなく、どちらも一緒につまびらかにした上で、今の組織にとって最適だと信じる解を、模索し続けていくことだとぼくは思う。
「全社員ジョブ型」という方向性に踏み切ろうとしている企業も、きっと、その選択が、そこで働く個人にとって、そして会社にとっての理想を実現することになる、と信じているからこそ、そういう意思決定をしているのだろうし、トレードオフとして起こり得る問題やその影響も、当然、呑み込んでのことなのだと思う。
ぼくの働いているサイボウズも、「ジョブ型」というわけではないが、1人ひとりと個別に条件を合意(限定)するという、少し変わったしくみにチャレンジしている。
参考記事:「ジョブ型」かどうか、より大切なこと
参考記事:情報技術で「正社員改革」に福音を
1人ひとり個別に、多様な個性を重視して契約を結ぶことができる、と言えば聞こえはいいが、裏を返せば、そこには膨大なコミュニケーションコストがかかっているし(もちろん、それを情報技術の力で省力化していくことに心血を注いでいるわけでもあるが)、却って、個別になりすぎることで、恣意的な合意が行われるリスクは常に付きまとっている(一律のルールを定めたところで、結局、恣意的な運用がまかりとおってしまうケースも世の中には沢山あるが)。
それでも、少なくともそうしたトレードオフを、社内外に包み隠さずオープンにしていこう、というポリシーを人事担当者が持っておくことは、よい面ばかりを強調して、見たくないことは見ない姿勢よりは、幾らかマシなのではないかとぼくは思う。
雇用システムをはじめ、人事制度・施策のメリット/デメリット、あるいは、うまくいっているところも、うまくいっていないところも、公明正大にオープンにしながら、1つひとつ、誠実に理想を目指していくこと。
見たいものだけを見て、見たくないものには蓋をする。そんな誘惑に負けることなく、起こり得るリスクから目を逸らさないこと。
公明正大であり続ける覚悟を持つということ。
結局、これが一番むずかしいような気もするが、日本社会全体で、よりよい雇用システムを構築していくためにも、覚悟を持って、日々の人事の仕事に取り組んでいきたい。
参考文献:
濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か』
濱口桂一郎『若者と労働』
濱口桂一郎『日本の雇用と中高年』
海老原嗣生『お祈りメール来た、日本死ね ~「日本型新卒一括採用」を考える~』
海老原嗣生『人事の組み立て~脱日本型雇用のトリセツ~』