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孫文はなぜ孫中山と呼ばれているのか?

中国で孫文ブームが起こっている。中国で孫文の銅像が次々と建立されているという。日本では孫文と呼ばれているが、中国では孫中山と呼ばれ、銅像には「孫中山」と銘打たれているという

なぜ孫文は、孫中山と呼ばれているのか?

この呼び方に、中国の日本への基本姿勢が浮かび上がる
中華民国の国父と言われる孫文は、270年続いた清朝満州族から中国を漢民族に取り戻し、中華民国を作りあげた。その功績で、国父と呼ぶ台湾だけでなく、中国大陸でも「近代革命の先駆者」と崇められているが、その孫文の銅像が増えている
 
なぜか?それを読み解くヒントに、中国の電気自動車のトップメーカーBYDの車種の王朝シリーズにある

王朝シリーズの車種には「唐」「秦」など中華民族の王朝名が付けられてきた。夏は中華民族初の王朝だ。王朝シリーズ販売事業部の路天総経理は発表会で、車種名の由来について「夏は中華文明の礎で、時代を切り開くという意味がある。王朝シリーズの旗艦MPVの位置づけを表現できる」と話した

日本経済新聞2024年9月4日

孫文の呼び名が、台湾や中国で「孫中山」と呼ばれるのは、孫文が日本亡命中、東京日比谷公園の近くに住んでいたとき、近所の邸宅の表札「中山」の字が気に入り、「中山樵(なかやまきこり)」と名乗っていたこともあり、中国に戻り「中山」を孫文の号にして、孫中山として革命を成就させた。よって

孫中山の中山は
日本名の「ナカヤマ」である

孫文の銅像に「孫中山」と銘打つ意味は、実は深い。中国と日本の関係の深さを感じる


1 中国人で読まれる1000年前の日本の女流作家


 世界最速と言われる中国深圳で、すごい風景を見た。深圳の最大の書店で、子どもたちは座り込んで本を読みつづけていた。近年日本では見かけないような鋭い目線の子どもたちを見た

その深圳の中国の書店には、日本の本が並ぶ。神戸出身の村上春樹と、大阪出身の東野圭吾の本が爆発的に売れていた。谷崎潤一郎の「陰影礼賛」が中国デザイナーの必読書となっていた。「ものに美しさがあるのではなく、光によって生まれる陰影にある」―陰の部分に着目する日本の美を中国が学ぶ
 
その1人、すごい人がいる
1000年前の清少納言。この彼女が書いた「枕草子」が、中国知識層や若者層で読まれている
 
漢・唐文化を知悉した知性的で、聡明・利発・前向きなテキパキした1000年前の清少納言の感に、現代中国人女性は感動。清少納言の「をかし」の感性とリズムに共感して、学ぶ
 
現代中国人にとって、なんら違和感がない。自らの中国古典を読むように、すんなりと心に入るという

「をかし」の世界観 

「をかし」とは、たんに「いいね、おもしろいね」という感情だけでなく、客観的・理知的に「これはこういう点がおもしろいね」と評価するというニュアンス。清少納言の文体はリズミカルで、「をかし」を重ねる

春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際…。「1000年前に、こんな女性が日本にいたのか?」と、四季ごとに変化する日常を豊かな感性で観察し、鮮やかに躍動的に描写した清少納言の「枕草子」が、紫式部の「源氏物語」とともに、中国の知識層、若年層で読まれている

“もののあはれ”の紫式部に、“をかし”の清少納言。彼女は中宮定子との唐の詩人“白居易”を踏まえたやりとりなど、当時世界最先端の唐文化を完璧に知悉していた教養人だった。聡明・利発・才気煥発で、シャープでありつつ、「をかし(情趣ある)」を連発するユーモアあふれる、1000年前の日本女性の感性が、現代中国人の若者たちの心を捉える

ちなみに清少納言は「清少/納言」と切って読むのではなく、「清/少納言」と切って読む。唐風文化の影響を受け、一文字姓(清)の名前が流行した。それぐらい平安時代の日本は、唐に学びつづけていた

note日経COMEMO「1000年前の日本に、こんな女性がいたのか!─“漢と唐は、日本にある”」 

「あはれ」
分析的、客観的な評価
共感、同情的 「哀れ」
「をかし」
批判精神を含んだ笑い 「くすっ」
知的興味の感性 「おかし」
 
「をかし」が江戸時代の日本人の感性を育んだ。その見本のような絵がある。このなんでもない絵が、それである

藻狩図

この絵は、森一鳳の「藻刈図」である。「藻を刈る一鳳」→「儲かる一方」として、江戸時代の天下の台所と呼ばれた大坂の町人に人気があった。これが「をかし」の本質だった

2 あやまり役がいた都市

江戸時代の大坂の話をつづける
こどもたち(5歳~15歳)は寺子屋で勉強していた。一人の子どもが悪いことをした。寺子屋の師匠がその子を怒りそうになった。その気配を感じて

別の子どもが師匠の前に進んで、あやまる

あやまり役の子は、あらかじめ決められている。師匠は悪いことをした子どもではなく、あやまり役の子どもを叱る

悪いことをした子どもはあやまり役の後ろでじっとしている。あやまり役は神妙にうなだれ、師匠に「叱られる」という役割を演じる。師匠が叱る相手はあやまり役だから、本当に言うべきことをいう。あやまり役は役割だから、いくら叱られても傷つかない。一方悪いことをした子どもは師匠とあやまり役の様子をみて、自らの行いを猛省する
 
さらに悪さの度が過ぎると、寺子屋から破門だという「留置」になる。そのときも「あやまり役」たちが登場する
 
まず師匠の夫人が詫びを入れる
それでだめなら、両親が詫びる
それでもだめなら、近所の長老が詫びる
 
という順々にあやまり、最終的に師匠が許すという手順である。事前に「今日は誰々を留置するから」と関係者に、本人がみんなで詫びるという「演技」をするシステムがとられた
 
現代の職場には、パワハラ・逆パワハラ、心理的安全という声が飛び交っているが
 
師匠が悪いことをした子を叱ろうとしたとき、その日のあやまり役が師匠とその子の間に入って、叱られる本人の代わりに、あやまる。師匠はダイレクトに叱らないという江戸時代の大坂や京都の寺子屋のすごい教育システムがあったが、今も企業や店のなかに、残っている

3  日本文化の中の中国・中国文化の中の日本

江戸時代の大坂の大店には、こんな行事もあった

「送窮鬼」 ─ 貧乏神送り 

貧乏神は焼味噌が好物。寄りつかれては困るので、ふだんは味噌を焼かないが、毎月30日にかぎり、番頭が台所で大きな焼味噌の玉をつくる。1ヶ月間にいた貧乏神が家内中に充満したにおいにつられて台所に集まる。ころあいをはかって、味噌玉を割り、中に封じこめ、川に流して、福禄の神を迎え、家の幸福と安寧を祈った
 
末永く家の繁栄を願い、「家中に日常的に始末を徹底させる」ことが目的の大坂での町人の行事だったが

中国由来の行事であった

もうひとつ日本のなかの中国文化の話をする
コロナ禍のなかで、奈良の西国7番札所の岡寺が、江戸時代から伝わっている「鐘馗図」と「悪厄除け祈祷札」の版木をつかって200年ぶりに刷り参拝者に配られた。この鐘馗さんとは、だれか?

唐の6代皇帝玄宗がマラリアで高熱となったとき、玄宗の夢に鐘馗があらわれて病が治った
時代に伝わり、端午の節句に鐘馗の絵や人形を飾り、魔除け、厄除けとするようになった

コロナ禍中に、中国の鐘という友だちから、「日本で、鐘馗が頑張っているようですね。鐘馗は、実は私の先祖なんです」とメールをいただいた。日本での鐘馗の活躍が、SNSで中国に広がったことが嬉しいと、彼女は言っていた

中国から日本に伝わり1000年以上
ご活躍されている鐘馗さんだけでない

中国文化はシルクロードを渡って、終着点である日本に多くのモノ・コトが伝えられ、日本はそれらを受け入れて、融合して、洗練させて、日本的な価値を生み、さらに磨き、繋ぎ、現在に息づいている
 
それを逆に中国が日本から受け入れ、拡がっているモノ・コトも多い。茶道・華道しかり、清少納言は1000年の時を超えて中国人に読まれて、息づいている

両国は1000年以上も文化が混ざりあいつづけている。現代もパリ五輪で卓球や体操の競い合い、称えあっている
 
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