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他者の異質性とコラボする。 未来をつくり、らしさと出会い直す、これからのまちづくり

お疲れさまです。uni'que若宮です。

2022年は「メンターケーション」というひとり企画をしており、月に一箇所ずつ日本のどこかに滞在し、現地の自治体さんや企業の事業相談や地元の方のキャリア相談などなどメンタリングしながら旅をしているのですが、9月は5日〜9日まで山口県〜北九州市に滞在しておりました。

今日は山口でのメンターケーションを振り返りつつ改めて考えた「異質性とのコラボレーション」について書きたいと思います。


「土地の異質性」とコラボする

今回のメンターケーションは、今瀬 稀子さんという方に呼んでいただいたのですが、キコさんつながりでたくさん面白い場とユニークな方たちに出会うことができました。

たとえば、初日に訪問した長門市の俵山ビレッジさん。

俵山ビレッジの住人のみなさんと


俵山温泉という古くからある湯治場に、吉武大輔さんが仕掛けているコミュニティなのですが、高齢化しさびれつつあった温泉地の空き家や廃旅館をシェアハウスやシェアオフィスなどに再生し、若い人たちが移住し定住したり、行き来したりこれまで俵山温泉に来なかった層の人たちが集まる場になってきています。

また、そのコミュニティはまちに開かれていて、地元の方とも徐々に親しいコミュニケーションが生まれ、じわじわ発酵するようにまちに変化が生まれています。外から来た若者が「とってつけた新しいもの」をただ持ち込むのではなく、「健康をテーマにした新しい湯治場」へと一緒にアップデートしていく共創的感覚があります。


2日目には向津具半島の百姓庵さんを訪れました。

「森の豚」放牧場の前で井上かみさんと。

当時は都会でばりばりに働いていたかみさんが地元の井上雄然さんと出会い、20年も前から自給自足生活をはじめ、サステナブルで・ていねいで・豊かな食のプロダクトを生み出し続けています。とくにシンボリックなのが『百姓の塩』。向津具半島の山と海のミネラルが凝縮され、とても豊かで深い味わいのお塩です。

一度は火災で全焼するという災難に見舞われながらも、クラウドファンディングで1千万円近い支援が集まり、塩場も再興することができたのだそう。

半島内の森に放牧で育てている「森の豚」の製品にも百姓の塩がつくられていて、ソーセージとか生ハムとか美味しそうすぎてやばい…


3日目にお伺いしたのは内日の中島陶房さん。

中島陶房の作品たち

地元の山の土で作品をつくっている陶芸家の中島大輔さんの工房です。土は陶芸用のものを購入してつくる陶芸家も多い中、中島さんの陶芸は山に土をとりにいくところからははじまります。そして土を単なる材料としてではなく、土地の土と対話する中で作品が生まれてくる、創作のパートナーのように捉えていらっしゃいました。


俵山ヴィレッジの吉武さん、百姓庵の井上かみさん、内日の中島大輔さんに共通する点は、ひとつは「移住者」であること

そしてその土地とコラボレートするように働き、暮らしていることです。

いまはすっかりその土地に馴染んでいるみなさんもはじめは「よそもの」であり、みなさんにとって土地も最初は「異質な他者」であったことでしょう。

異質なものとして出会ったその土地を、自分が思う通りに作り変えてしまったり自分がつくりたいものをただ持ち込んだりするのではなく、かといって「郷に入りては郷に従え」的に土地の側に「合わせて」しまうのでもなく、みなさん異質性を面白がりコラボを楽しむように場作りやものづくりをされている、そんな気がしました。


「異世代」とコラボする

もうひとつ、今回の山口メンターケーションでとても面白かったのは、幅広い世代の方たちが入れ替わり立ち替わり旅の道連れとなりながら、世代を超えて対話していたことです。

これは今回の主催者・今瀬キコさんの引力によるところが大きいとおもうのですが、キコさんのつながりやコミュニティが脱中心的になっているおかげでつながりの引力が波及していき、滞在中にも芋づる式にあたらしいつながりが周縁や境界に(それも偶然的に)生まれてくる感じでした。

結果として、10代・中高生からアラサー世代、アラフォーアラフィフ、70代、そして90代の方まで、メンターケーション史上もっとも幅広い世代のみなさんと出会うことができました。

年代や世代の話になるとしばしば「年寄りは〜」「これだから若い世代は〜」など、主語の大きい括りや決めつけもされがちで、それによる分断も起こりやすいのですが、今回の旅の道すがら集まったみなさんは、初対面の方も既知の方も世代を超えて、お互いへのリスペクトをもちつつも年齢での上下なんかはなくフラットにつながり混じり合っていたのがとても印象的でした。


コラボできない「ムラ」の既得権益者

移住者が土地や地元民とコラボレートしたり、幅広い年代がフラットにコラボレーションするような関係性がいつでも生まれるかというと、決してそんなことはない気がします。

むしろ「よそもの」と扱われて地元の人から疎まれたり、年代ごとに固まって対立したり、年齢による一方向的な上下構造が生まれたり、というほうが残念ながら多いケースではないでしょうか。

僕はこうした「ムラ」現象をみるにつけ勿体ないなあと思うのですが、「古株」が偉そうにしているムラでは、外界や他者とのコラボレーションが起こらず、むしろ異質性を排除しようとしまいがちです。

なぜなら、「古株」はある意味で既得権益者であり、そのムラの中で快適さを享受しているからです。そこに他者や異質性が入り込みムラが変化してしまうと、自分の優遇された立場が失われる。ここに「防衛」の機制が働き、他者や異質性を恐れ保守的に異質性を排除しようとします。

地域や企業やプライベートなコミュニティで、「よそもの」や「異質性」が訪れた時に尊大に振る舞い、自分の権力を誇示しマウントしたり、否定したりする人はいませんか?もし周りにそういう人がいるなら、その人はその集団の中で既得権益をもっており、だからこそそれを失うのを恐れている方たちかもしれません。

ちなみに「古株」と言いましたが、それは物理的に歳をとっているということではありません。10代が「は?年寄りはすっこんでろよ」と他世代を排除したり、自分たちの文化や言葉だけを「イケてる」と考えたり振る舞ったりすることもあります。この場合、「若者ムラ」においては「10代」のほうが構造的に「古株」であり、「おじさん」の方が年長でも「新参者」なのです。

社会や組織では、「上司」や「〇〇長」などの「権力者」がイエスマンだけで周りを固めたり、既存のルールを権力で強要し、異質性を取り入れずに同質性を維持しようとすることがあります。「女性がたくさん入る会議は時間がかかる」とか「女性にゲタを履かせる必要はないし逆差別だ」などというのも異質性とコラボレートするマインドの低さと既得権を失う恐れを露呈してしまっています。

こうした行動は社会的権力強者に起こりがちですが、それに限りません。たとえばジェンダーやSDGsの話とかの場合になるとむしろ女性や若者のほうが「古株」として振る舞い「おじさん」はすべからく「わかってない人」として見下したり嘲るケースもありますし、アート界隈やアカデミアでは、外の人を「素人」と見下し、「わかってないよそものは口を出すな」と排他的になってしまう人もみかけます。僕も気づくとやりがちですが、スタートアップ界隈や外資の人がやたらカタカナ語をつかうのも、「内輪ノリ」のある種のマウント行動な気がしますw 


こうした現象を以前「先スプレイニング」と名付けたのですが、要はこうした「古株マウント」は年齢や権力に関わらず、自分が慣れ親しんだ環境では誰もがしてしまいがちで、結果として異質性を遠ざけてしまう可能性があるのです。

でもこれ、本当にもったいないと思うんですよね。せっかく外の方が興味をもってくれたのだから、そこに前からいて詳しいのなら手助けしてあげられたらいいですよね。そしてもっといえば、中にいる人だけでは見えない外からみた価値や「よそもの」の気持ちは「新参者」のほうがわかるわけですから、そこから学ぶことも沢山あるはずです。他者を敬遠せず、それとコラボレートすることができたら、自分たちの魅力や価値もさらにあがっていくはず。

今回の旅で出会ったみなさんが異質性を排除するのではなくコラボレートできていたのは、自分が慣れ親しんだ「既得権益」を守ろうとだけせずに、それを手放しつつ自分たちごとアップデートされていくのを楽しめる空気があったからだという気がします。そんなマインドセットの方たちが多いまちのまちづくりが上手く回りだして「未来」につながっていくのではないでしょうか。


欧米的「意図」主義から中動態へ

そしてまた「コラボする」という感覚は、「主体の意図」というアングロサクソンなあり方を手放すということでもある気がします。

どういうことかというと、欧米的な価値観では

AがBを〜する。
BはAに〜される。

というように、能動態/受動態という考え方が主流になっています。

これはどちらか一方が主体(=subject主語)であり、他方は客体(=object目的語)、そして物事や変化は「主体の意図」によって起こるという意図中心的な考え方で、近代以降の日本もこの影響を強く受けているので、人間関係もこのフレームから捉えられがちです。「説得する/される」とか「変える/変えられる」とか。

しかしコラボレートにおいて起こることは本来どちらか一方の意図に還元することはできないものです。

「よそもの」が外からやって来て、とってつけたようにまちに何かをつくろうとするのも、「郷に従え」というのも、片側の意図を他方に強要することになり、コラボラティブな態度ではありません。

これに対し、「中動態」というモードがあります。「中動態」は、AかBかどちらか一方の意図ではなく、どちらかが主語でどちらかが目的語というのでもなく、AとB双方の出会いによっておこる出来事であり、ゆえにAの意図もBの意図も超えたものです。

そして中動態は「主体の意図」を超えているからこそ、そこに「未来」が生まれると僕は考えています。「パーパス」や「ビジョン」ももちろん大事ですが、それは
「誰かが思いつける範囲のもの」である点で、しばしば過去の枠組みに囚われてしまいます。アート思考的にいえば、他者性や異質性を含んだ偶然性や余白があってはじめて、予想を超えた創造性が生まれるのです。

また「未来」という時、それはただ現状を否定するものやSF的なものではありません。その未来はむしろ自分たちらしさによって生み出されるものです。

中動態は相互作用的です。自分のあり方が他者に影響するとともに、他者の異質性を通じた触発によって自分自身と出会い直す機会にもなるからです。こうした中動態的なコラボレーションを通じ、変化しつつ「自分らしい未来」と出会い直していく、それこそがこれからのまちづくりではないでしょうか。


多様性が大事だと言われています。しかし多様なものが併存しているようにみえて、しばしばそれぞれは「ムラ」として閉じていたり、「あの人達とはちがうから」と線引きしてしまったり、「みんなちがってみんないい」が誤って乱用されたりして、かえって分断を生んでいることもあります。(インターネットでのフィルターバブルとそれによるエコーチェンバー)

大型複合施設に仕切られたテナントとしてさまざまな店舗が集められていれば、多様性は実現されているでしょうか?それは集合的ではあるかもしれませんが多様性の場ではないように僕には思えます。「共創」的ではあまりなく、むしろ「競争」の敵になってしまったり…

多様性をいう時、もっとも大事なことは異質性とのコラボレーションではないでしょうか。小分けに仕切られたままでは科学反応は起こりません。静的な単なる集合ではなく、相互に反応し合う動的な多様性とそこから起こる変容こそが多様性の価値だと僕は思います。

大事なのは分けてしまうことではなく、異質性とコラボし、それぞれの異質性を面白がること。

こうした異質性とコラボするマインドセットこそがこれからのまちづくりに必要なことであり、そこからこそこれまでにない未来が生まれ、そのまちらしい未来と出会い直していくための鍵ではないか?そんなことを改めて感じた山口メンターケーションでした。



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