見出し画像

「ビジネスと文化」を論議するー文化創造者としてのラグジュアリー・スタートアップ。

「ラグジュアリー」は、常に論議を呼ぶ言葉です。多くの意味をもつ言葉であると同時に、その多義性を構成するひとつひとつの意味に、主張する人の考えが極端なかたちで反映されている。よって、「これがラグジュアリーだ!」「いや、それはラグジュアリーとは言わない!」と侃々諤々になりやすいのです。

だからこそ、ラグジュアリーという言葉の意味の勢力図をみれば、時代によって主張したいことが、「文化的なアヴァンギャルドの姿」*として見えてきます。ラグジュアリーは「意味のイノベーション」の見本のような領域です。

*『「アヴァンギャルド」は未来の可能性の解釈である』を参照。

新・ラグジュアリー 文化を生み出す経済 10の講義』の共著者である中野香織さんの書いた以下の記事では、新・ラグジュアリーの一つのタイプとして「クワイエット・ラグジュアリー」という言葉をとりあげています。ここでは明示的な経済的価値とはひとつ距離をとる全体の傾向があることを示しています。

安価であれ高価であれ、クワイエット・ラグジュアリー的な装いは、時代の空気にもなじむ。持続可能性に重きが置かれる風潮の中で、長く着られる服を選びたい、そんな選択ができる人と見られたいという願望が若い人の間で高まっていることと無関係ではないだろう。

ちょっと長くなりますが、ラグジュアリー、特に新しいラグジュアリーが議論される背景について語ります。実は、10月から参加募集をかけ、11月から実施する新・ラグジュアリーをテーマにしたオンライン講座の準備をしています。下記にある2年前に企画実施した内容を刷新し、講師も新たな人にお願いしているのですが、この2年間で新しいラグジュアリーを語る動機も変わってきたと思うのです。

「ラグジュアリー」という言葉を必要とする時代

冒頭で書きましたが、その時代にある志向性が「ラグジュアリー」の意味合いに反映されていきます。この8月に『日経新聞の記者がラグジュアリーの記事を書き始めたーその変化の背景は?』で書いたように、日本では高級ファッション雑誌などで局地的にラグジュアリーという言葉が頻繁に使われる一方、ビジネス一般のレベルでラグジュアリーはマイナーな位置を占めてきました。

それが昨年、一時的にせよフランスのコングロマリット、LVMHのアルノー会長が米国のイーロン・マスクを抜いて世界一の資産家になり、かつパンデミック中期以降、LVMHをはじめとする高級ブランドグループの年商が急上昇したため、業界を問わずビジネスパーソンの読者の関心をひく話題になってきた、と日経新聞の編集の方は判断したのでしょう。

むろん、日本のビジネスの傾向として「あらゆるものの価格が安すぎるため、生産性が低い」との問題への解決として、高い価格帯への転換アプローチが検討されており、その一環としてラグジュアリー分野への注目が増していることもあります。あるいは、インバウンド分野では、海外のお金持ちの「浪費」の誘い水が少ないのを機会損失として捉える向きもあります。

ただ、もっと広い視野で眺めると、「文化とビジネス」という領域の未成熟さへの反省が窺えます。これがラグジュアリーの論議がこれまで今一歩であったこととの反証にもなっています。2010年頃からのクールジャパン政策が目立った功績を残していないのも、反省する所以でしょう。

言うまでもなく、欧州のLVMHに代表される「旧ラグジュアリー」は、彼らのビジネスが歴史文化と密接な関係にあることを示すことで価値をあげてきました。歴史に登場する貴族やその文化を真似た新興ブルジュア層に愛用されたエピソードを散りばめるのも一手法です(要注意なのは、イタリアのラグジュアリーは必ずしもこの手法をむやみに使わず、また、クワイエット・ラグジュアリーも、この手法を多用したがらないと思います)。

それと比べ、日本にも長い歴史文化がありながら、欧州のようにはビジネスでの恩恵が図られていなかった——-直接的には、我々は不器用で何か損をしていないか?と思い始めたのです。

「ビジネスと文化」にある期待と危うさ

ビジネスと文化の関係が日本のなかで関心の対象になってきた歴史はそれなりに長いです。1970年代から「エコノミックアニマルではない、文化国家になるのだ」**との意見は長くあります。

**「われわれは工業化至上主義、経済中心主義の段階をすでに 70年代に卒業したのであり、今後の日本は成熟した市場社会にふさわし い 「文化の時代」 を生きていくことになるであろう」という文章が、1980年 大平内閣で生まれた政策研究会 文化の時代の経済運営研究グループの報告書にある。

実態は、特に、上記報告書が出た後、Japan as NO 1が日本の代名詞のように言われた1980年代、一見、やりたい放題ーニューヨークの名物ビルから西洋名画までの買いあさりーであるようでいながら、「演目としての文化」があったに過ぎない、という印象がありました。自分たちの文化アイデンティとは距離がある文化に憧れ、自らの文化発信が苦手な状況に大きな変化はなかったのです。

しかし、今、ビジネスと文化はもっと違う文脈で語られます。自分たちの文化アイデンティとの整合性が図られます。例えば、地方再生や地方創生という言葉が語られるとき、それに付随して「土地がすべてを生む」***とのニュアンスで文化が引き合いに出されます。それらの地では農業やクラフトという活動が起点になっていることもあります。つまり、都会の知的エリートが住む文化の世界ではなく、より土着的な性格の文化の比重が増しています(これは、日本だけの傾向ではないです)。

***イタリアの高級ファッション企業であるブルネロ・クチネリでは古代ギリシャBC6世紀に生きた哲学者 クセノパスの「すべては大地から生まれる」を引用した企業広告を行う

グローバル化における過大なサイズ、大きすぎるものへの生理的な忌避感が根っこにあります。身体性に基づくローカル感覚が喪失される怖さもあるでしょう。つまりは、可視化されないプロセスがあまりに大きすぎると、見て触れるプロセスへの希求が生れやすいのです。

しかしながら、ひとつ注意すべきことがあります。文化アイデンティを「主義」とでも言えるほどに大事にし過ぎるのも困りものです。もう少し気楽に構えていい。

その按配のとり方がセンスということになります。その鍵になるのが歴史の見方です。今月、『歴史に学ぶことを、もう一度考えてみよう』で引用した以下の言葉を理解することです。およそ文化アイデンティが膠着的な歴史理解に基づくこともままあり、軽やかな文化アイデンティを意識するのが望ましいです。

歴史というのは、時代によって違った記述がされる。だからこそ、歴史に学ばないといけない。

サーキュラー経済とショートサプライチェーン

ローカル文化への比重が高くなり、ビジネスと文化の重なり合いが可視化されてきた背景を理解するには、もう一つの側面に目を向けないといけません。それはサステナビリティがすべての話の前提となっているなか、言うまでもなく、ロングサプライチェーンの正当性が失われつつある点です。

グローバル化が身体性を顧みないとの怖さだけでなく、環境破壊を後押ししてしまう存在であるがゆえに、小さなサイズの地域で循環型経済を目指す、即ち、ショートサプライチェーンを目指すところに正当性があるのです。そうすると自ずと、ローカルを基盤としたシステムが構想されます。

この際、ローカル文化という言葉が浮上してくるわけです。ローカル文化アイデンティの尊重という観点ではなく、サステナビリティとしてリーズナブルな戦略です。そして、結果的にローカル文化、または文化とビジネスの解釈の洗練さが問われたのです。剝き出しの文化論ははだかの剣を振り回すようなところがあり、政治的にもリスキーだからです。センスがここでも鍵になります。

ラグジュアリー・スタートアップが文化創造の先端をいく

社会活動家ではなくビジネスを企てる身として、以上の観点で微妙なバランスをとりながらプロジェクトをおこすなら、これはラグジュアリースタートアップという位置がとてもフィットします。

いや、今のところ、これ以上に相応しい領域は思い浮かびません。新しいサステナブルな社会のあり方を提示しながらビジネスをしていくに、大量生産型が相応しいはずがないし、そもそもロジックとして齟齬をきたします。

アヴァンギャルドな存在ー文化創造のファーストペンギンーとして価値を示すには、それなりの経済的な見返りを期待できないと推進しづらいーーーーここにも、スタートアップがラグジュアリーという多義的な言葉と共に突っ走しるべき理由があるのです。

最後に先に紹介した『日経新聞の記者がラグジュアリーの記事を書き始めたーその変化の背景は?』の後半部分で書いたことを、紹介しておきます。

ラグジュアリーとアートについて語れることが、ビジネスパーソンに求められる素養であると語られる日も近い、ということです。

冒頭の写真©Ken Anzai


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?