見出し画像

「旅しないイノベーター?大いに結構!」ー目的地変更型イノベーションに必要とされる人

旅行関連や航空会社受難の時代に突入しました。ドイツのルフトハンザも、政府に支援を求めました。旅行者数の激減だけでなく、どこの航空会社でも機内の社会的距離維持と採算のバランスをどうするか?という問題もあります(航空会社によって、かなり対応に幅があるようです)。いずれにせよ移動にコストがかかる時代が突如到来したことになります。

さてイノベ―ションは定番のように「異なるものが文脈を超えて新しく繋がることだ」とか、イノベーティブな考えを得る頻度や質は「移動距離に比例する」という台詞をよく耳にします。とすると移動にコストがかかる時代にあって、イノベーションは減少傾向に向かうのか?あるいは質が下がるのか?という疑問が湧いてきそうです。

結論からすると、この疑問自体が的を外しています。この数年間におきている、求められるイノベーション自体の変化を踏まえていないと思えるからです。何処かの空港で滑走路から飛行機の飛び立つのをぼんやり眺めながら突飛な発想が浮かばなくても、あるいは異郷の街角で道に迷わなくても、極端な話、イノベーションの頻度や質とは何の関係もないでしょう。

話を単純化します。イノベーションには2種類しかなく、「目的地を変更する」と「目的地への到達方法を改善する」です。

この20年近く主流だったイノベーションは、「品質を良くする」「機能を向上させる」「新しい機能をつくる」「商品の低価格化」といった問題解決をメインとするもので、上記の分類でいうと「目的地への到達方法の改善」です。そのために、ここに「ヒラメキ」「予想もしなかったアイデア」が沸き上がる(か降り立つ)が望まれ、そのためにいかに頭をフレッシュにして「受容のスペース」をつくっておくかが問われたのです。しかし、状況は変わりつつあります。

意味のイノベーションを唱えるストックホルム経済大でイノベーション・リーダーシップを教えるロベルト・ベルガンティの最近の彼のネタも交えながら、このテーマの動向を探ってみます。

目的地の変更にはWhyが必要

アイデアをオープンイノベーションやデジタルプラットフォームなどで大量に収集できるようになった現在、アイデアそれ自体の価値は相対的に下がりました。問題解決型のイノベーションは、そのためのアプローチがそれなりのバリエーションで開発され、同時に運用のコストも下がっています。つまり問題解決が不要になったというわけではなく、その実現のプロセスの実施が比較的に容易になったということです(これは後で書くことと関連しますが、「プロジェクトの目的達成が楽」とは意味が異なります)

一方で目的地の変更です。これにはwhyが問われます。改善は既に目的地が定まっているのでhowですが、行き先を変更にするにはhowの前にwhyが浮上します。別の言葉で表現するならば、行き先の変更には意味が問われます。「なぜ、今、北ではなく南に行くのか?」には意味がないと判断できません。

ただ、実際にはそこに何らかのデータが動機になることはありますし、「あっ、そうだ、目的地を変えないと行けないのだ!」と気づくための環境としての旅(例えば、違った風景を眺めると違ったフレームの存在に気づく)、ということもあるでしょう。だから言いだしたらキリがないです。あくまでも相対的な問題だと考えてください。

そして、この目的地変更をどういうプロセスでやればよいのか、その方法が改善ほどには開発されていません。したがってプロセスの実施の前から困難を伴いやすいことになります。

さらに今、人は意味を求めています。常に人は意味を求めてきましたが(フランクルは『夜と霧』において強制収容所のなかでさえ、人は生きる意味を求めていた、と記しています。この数か月、「健康か経済か?」という議論が盛んにされてきましたが、その不毛さは、そもそも何のための健康であり経済かの問いをうかつにも忘れたところに原因がありました。そして、ある人たちは、そのうかつさに後になって気づき始めました)、特に今、その欲求が強く意識されるようになっています。「それやって、意味あるの?」という問いに敏感になっています。

例えば、仕事をするのはお金のためだけでなく、自分の人生を生きているとの実感が欲しく、言ってみれば、その実感とは「こうやって、みんなの嬉しい表情のなかで生きている自分が好きなんだ」との想いであり、ここに生きる意味を見いだすのです(下記で紹介した関係価値を重視するコラボラティブ経済の話です)。

だから、自らのビジョンのために方向を変えることには厭わないし、あるいは同じ方向に想いを寄せるグループがいるならば、その連中と方向を変えるためにコミットすることに喜びを感じるのです。人はオーナーシップをもてることには、強力に関与し、目的達成のために諦めずに執拗に試行錯誤します。

ここでまとめておきます。目的地の変更へのアプローチ開発需要が増したことに加え、目的地の変更(意味の探索)に充実感を求めることも増えている、ということになります。

皆が知っている「アイデアより実行が大事」

ある程度のキャリアを積んでいらっしゃる方ならご存知だと思いますが、アイデアを出すよりも実行する方が何十倍も何百倍も大変です。「いや、でも、そのアイデアがすごく重要なんだよ!」と実感した経験もあるでしょう。でも前述したように、アイデアを掴むためのアプローチは数多あり、そのコストが下がっているタイミングにおいては、実行が上手くいくことにコストと時間をかけた方がよいと考えられます。

そうすると「出過ぎた杭は打たれない」とばかりに気ままを演じながら、あれこれと周囲を振りまわす「突飛なイノベーター」は、あまりお呼びではないのです。チーム全員が実行にあたってスムーズに突入するよう誘い込む「控えめなリーダー」の存在の方が望まれるわけですね。前述で紹介した「学びを共有するコラボレーション」にある、混沌とした状況を前にして(俺は何でも知っているという顔をするのではなく)「私は分からない」とまず言い放つことができる人です。一歩引いて、周囲の意見を聞き、全員にオーナーシップを持たせながら「目的地の変更」を誘導する人です。このためには深くゆったりとした考えができることが優先されます。

以上が、ベルガンティが最近よく話していることです。次はぼく自身が考えていることです。

アートに注目するのは確信の動機と長期的視点

こう書いてくると、「最近よく言われるアートをイノベーションに!という動向はどうなの?あれは、発想を刺激する話じゃないの?」と思う人もいるかもしれません。アートを発想のネタとして見ている限り、イノベーション文脈では筋違いになります。ぼくはアートについては次の2つの点が、この文脈で有効だと思います。

まずは、アートにある美の問題です。何が美しく、何が醜いか、という論議ではありません。どうしようもなく美しいと自分で思う経験が、何かをするときの確信の根拠になります。「この方向で行く!」と決めるのは、ロジックを超える何らかセンスに訴えかけるものがあるからであり、それが美です。

また、「このことのために」「あの人のために」という言葉を添えて、愛という言葉が似あうケースもあるでしょう。

愛も美も、「自分突き動かす」というよりも、それらによって「自分突き動かされる」との感覚があるからです。確信には「確信せざるをえない」と感じる瞬間が必要で、そのポイントを通過した経験があると、ちょっとやそっとでモノゴトが上手くいかなくても簡単に諦めなくなります。

アートのもう一つのポイント。長期的な視点を獲得して維持するに役立ちます。何度も言うように、一瞬の花火をみて歓声をあげる話をしているわけではなく、目的地を変更するわけですから、ものをみる全体のマッピング、あるいは物差しを変える話をしているのです。

アートは、アーティストが長く考えてきたことのヒストリーが表現されたものです。それも作品を単独でみるのではなく、長い時間における変遷を追うことで目的地の変更の動機と仕方、それに要する時間とプロセスを理解することができます。

ここで、ベルガンティの再登場です。ぼくが監修に関わった『突破するデザイン』のなかで挙げている例を紹介しましょう。まずルネサンス時代のラファエロの『ソリーの聖母』(1500-1504)です。(絵画は、画像検索ですぐ出てくるので、そこで確認してください。変遷がより実感できます。一応、リンクははっておきます。)

彼の新しいソリューションの殆どが既に、この絵に登場している。しかし、聖母マリアはまだベールを身に着け、ただ1本の指でイエスの身体を支えている。イエスの身体を支えている。イエスは、不自然な光(絵画の空間にはない光)を浴びている。背景は殆ど描かれていない。

中世の絵画の作法に近いです。これ以降、この作法からだんだんと距離をもち独自の表現を獲得していきます。2番目は『大公の聖母』(1505)です。

ここで初めて、聖母マリアは両手でイエスを支えた(イエスは体重をもった)。

3番目。『カウパーの小聖母』(1505)で、上と同じ年です。

ここで初めて、背景に自然の風景が描かれた。また、聖母マリアには後光やベールがなくなった。

4番目。『牧場の聖母』(1506) 

初めて、聖母マリアが地上にイエスを立たせた様子が描かれた。

5番目。『ひわの聖母』(1506) 

ここで、人の大きさが、現実に沿った正しい比率で描かれた(イエスの隣に立っている洗礼者ヨハネは、イエスより6カ月年長で、実際に少し大きく描かれている)。彼らは子どもらしい動きをしている(ひわと遊んでいる)。

これらのラファエロの絵画と共に、是非、1260年の作品とされるテレッサの師匠による『大きな瞳のマドンナ』(Maestro di Tressa, Madonna dagl’ occhi grossi) と比較してみてください。宗教的シンボルとしての聖母マリアから女性としての聖母マリアの意味の変化がはっきりとわかります。そして、ラファエロ自身、「女性としての聖母マリア」という新しい意味を探求するわけですが、前述のように1500年から1506年の6年間で「自分自身の先入観を取り除き、新しい意味を具現化」したのです。

問いに対する答え

目的地の変更が重要なテーマになっている今、大言壮語やアブノーマルさはあまり期待される要素ではありません。もう時代が、社会が充分に想定以上のテーマを始終飽きせずに出してくれますし 笑。もう、嫌になるほどに痛感している現実です。

以前のコラムでも書きましたが、今、「人々」がイノベーションの主役です。欧州委員会の2020年から7年間、1兆円以上の予算を使って実施するイノベーション政策も、主役はゲームチェンンジャーです。以下の写真にある顔です。どこにもいる人たちです。気難しい顔をした科学者でもエンジニアでもありません。

画像1

・・・ということで、旅をしないとイノベーティブな発想が出せないと嘆くこと自体、的外れなのです。今、自分のいる場所で日常生活世界をさまざまなアングルから常に眺め、その日常生活で新しい目的地をみつけ、そこに向かって仲間を集めて動ける人があああこうだと前進し・・・しかし結局は、その前進の結果が旅できない距離にある他の日常生活世界を変えていくのです。こう展開してきて先月書いた、以下の「ハイパーローカル」ともつながってきます。

最後に。以上のことを強調したいのは、いくつか理由がありますが、1つには「尖ったイノベーターになれ!」との掛け声に言われた本人は委縮してしまい、イノベーションには「自分は向かない」と思う人が少なくないからです。また、「プラットフォーム自体を壊す人が欲しい!」と言われたら、そんな怖いことに誰も寄り付きません 笑。人は自分と周囲の人と脆弱性を共有できたところで対話を始めるのですが、それもリスクをとっても安全であることを大前提にします(上記の「コミュニケーションの質と意味がさらに問われることになるハイパーローカルの時代」で紹介したロンドン芸術大学でエツィオ・マンズィーニが2014年から3年間主催した、「Cultures of Resilience」と名付けたデザインリサーチプログラムの解説部分を参照)。

誰でも尖ったイノベーターになるなんて夢物語だし、たとえそうなってとしても、そんなのどうせ船頭多くして・・・ということで船は沈没してしまいます。でも、ここで説明したように強く要請されるイノベーションの性格が変化していることを踏まえると、旅ばかりしているような人よりも、直径何キロかで腰を据えているようなタイプで、人の話もよく聞く人のほうが大切なイノベーションにコミットできるというわけです。

最後の最後。ここで「誰でもイノベーターになれるか?」との質問があるとすればYESです。しかしながら、条件として、人はそれぞれ違ったタイプのイノベーションに対してイノベーターになれる、という結論がいいかなと思います。

(最後の最後の最後 !!。ぼく自身についていえば、これまで旅はほとんどが人に会うためで、そうした人たちとオンラインだけではなく、対面で会いたいとの強い欲求があることは、正直に書いておきます 笑)

ちょっと長く書きすぎてしまいました・・・失礼!






いいなと思ったら応援しよう!