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強制人事異動をやめたら、組織は崩壊するのか?

人事異動は会社が決めるもので、社員はそれに従うしかない。

おそらく今もなお、多くの日本企業において、このような考え方が一般的なのではないだろうか。

しかし昨今、「人事異動」に本人希望の要素を強める施策を取り入れたり、異動をさせるとしても、転居を伴う異動、すなわち「転勤」をしなくてすむような取り組みがさまざまな会社で始まっている。

背景には、1人ひとりの主体性を引き出すことや、ワークライフバランスの社会的要請、また、情報技術が発達したことで、これまでは物理的に難しかった仕事の進め方が可能になったことがあるようだ。

ぼくの所属するサイボウズでも、強制的な人事異動は廃止されている。実際、チーム(マネジャー)から「この仕事どう?」と提案されることはあっても、本人の意向を聞かないままにいきなり異動させることは一切ない。

しかし、他社の人にこの話をすると、「それで組織として回るんですか?」という質問を必ずされる。

よくよく話を聞いてみると、「みんながやりたい仕事をやったら、社内でやるべき仕事をやる人がいなくなってしまうのでは?」とか、「1つの仕事にやりたい人が集まりすぎて、人が余ってしまうのでは?」など、労働力の配分について懸念する声が多いようだ。

そんなわけで、今回は日本型雇用を研究した文献をいくつか参考にしつつ、また、実際にサイボウズ社内で起きていることも踏まえ、果たして「強制人事異動をやめたら、本当に組織は崩壊するのか?」というテーマで思うことを書いてみたい(参考文献は記事の最後に記載しています)。

世にも珍しい強制人事異動

そもそも、日本のように会社側が一方的に配置を決め、強制的に人事異動を実施する、という形は世界的に見るとかなり珍しい。

たとえばフランスでは、雇用契約をむすぶ際に「地理的モビリティ(異動)条項」をさだめ、どこまでなら転勤させてよいか、という範囲を決める事例が見られるという。

さらに、同条項を結んでない社員を異動させる場合も本人同意が必要で、同条項で決めた範囲内であっても、転勤させる場合は本人の意思確認を行う。

また、アメリカでは職務(ポスト)を変更するタイプの昇進・異動はすべて社内公募などで労働者との合意によってなされ、ドイツにおいても、異動をさせる際は、従業員本人と事業所委員会双方の事前同意が必要となる。

オランダにいたっては「職業キャリアの形成は労働者個人の選択に委ねるべき」という考え方があり、人事異動に際しては労働者との個別の面談を通して徹底的な合意形成が図られるという。

さて、実はこの時点で既に、冒頭に掲げた「強制人事異動をやめたら、組織は崩壊するのか?」という問いに対して1つの答えが出たことになる。

日本以外の国では、強制人事異動がなくても「組織は崩壊していない」のである。

しかし、ここで次に湧いてくる疑問は「日本以外の国では、仕事に対して人が足りなくなったり、人が余ってしまったらどうしているのか」というものである。

日本であれば、組織としての人員補充は新卒一括採用が主流だし、もし人が余ったら、それこそ足りない部署へ強制人事異動させるのがふつうである。

結論から言えば、日本以外の国では、もしある仕事(ポスト)に対して人が足りなくなったら、社外から採用(or 社内から募集)し、もしある仕事(ポスト)に対して人が余っていたら、(一定の手続きを経たあとに)解雇するのが一般的な流れになる。

つまり、日本以外の国では「強制人事異動」なんてしなくても、必要であれば社内外の労働市場から人をあつめ、不要になれば解雇することで労働力の配分を適正化しているのである。

さて、「強制人事異動」なんてしなくても、組織が壊れないことはよく分かったので、本人が希望しない配置や異動をするのは、明日からすべての日本企業で即刻廃止にしましょう。……と言いたいところだが、おそらくこの回答ではまだまだ満足できない人が多いと思う。

というのも、日本企業において、人が足りなくなった時に新しくキャリア採用を実施するのは可能だとしても、今の仕事がなくなったからといって簡単に解雇することはできないからである。

なぜ、日本だけが違うのか?

なぜ日本では人(無期雇用、いわゆる正社員)を解雇するのが難しいのか。

それは、長期雇用を前提として「職務(ポスト)を限定していない」からである。

逆にいえば、日本以外の国では労働契約を結ぶ際、「職務(ポスト)を限定している」ために、その「職務(ポスト)」がなくなる、もしくは「職務(ポスト)」を遂行できないと判断されれば、(一定の手続きを経たうえで)解雇することができる。

実際、日本でも雇用契約をむすぶ際に職務を限定している場合(たとえば、医師、看護師、ボイラー技士のような、特殊な技術・技能・資格を有する人たち)は、一方的な命令によって職務を変更されることはない。

逆に言えば、日本で無期雇用社員(正社員)の解雇が難しいのは、そもそも職務を限定していないんだから、いまの職務がなくなったとしても、社内で頑張って別の職務を探して、雇用を維持しなさいよ、と裁判所に判断されるからである。

それなら、日本も欧米と同じように無期雇用社員(正社員)の「職務(ポスト)」を限定すればいいじゃないか、と言いたくなるのだが、実は同じような議論は1960年代にされている。

1960年代、日本企業は欧米と同じように「職務(ポスト)」を限定して雇用し、「職務(ポスト)」に基づいて待遇を決める、というやり方に転換しようとしていた。

それこそが近代的な雇用システムであり、「職務(ポスト)」にマッチするかどうかだけを見ることで、年齢や性別といった「人」の属性による差別も自然と解消されていくことが期待されていた。

しかし、ご存知のとおり日本企業は結局、「職務(ポスト)を限定する」方向には行かなかった。

なぜなら、1973年に起きたオイルショックをきっかけに「職務(ポスト)を限定しないで長期雇用する」という日本型の雇用システムを日本社会全体が「素晴らしい!」と評価し始めたからだ。

「職務を限定しない」という魔法

実は「職務(ポスト)を限定しない」ことは、「モチベーション」「育成」「雇用(労働力確保)」という3つの観点から、会社と個人、双方にとって大きなメリットをもたらすものだった。

というのも、欧米のように「職務(ポスト)」を限定した社会では、一部のエリート層を除く、殆どのジョブワーカーは一生、同じ仕事を同じ給料でやり続けることになる(ポスト内の給与レンジで多少の上昇はある)。

つまり、少しずつ社内でキャリアの階段をのぼっていくという「モチベーション」を殆どの人たちが享受できないのである。

いやいや、ずっと同じ職務(ポスト)で頑張っていたら、社内でまた次のもうちょっと難しい職務(ポスト)に就いて、少しずつスキルも上げて、キャリアもアップさせられるんじゃないの? と思った人がいたとすれば、それは完全に日本的な考え方に染まっている。

「頑張っていれば、少しずつ難しい仕事を与えてもらえる」というのは、実は「職務(ポスト)を限定していない」からできる裏技なのである。

たとえば「職務(ポスト)を限定した雇用」では、各職務(ポスト)から平易なタスクだけを集めてきて少しずつ渡していく、という育成方法は使えない(そもそも職務を1人で任せられない人は採用していないからだ)。

また、少しずつ難しい「職務(ポスト)」を順番に駆け上がらせる、というやり方もできない(次のふさわしい上位ポストをあてるには、既にその上位ポストに限定して採用されている人が転職する、もしくは社内の別のポストに移るのを待たなければならないからである)。

つまり「職務を限定した雇用」では、会社の中で段階的な「育成」を行うことはできないのだ。それでは、日本以外の国では人材の「育成」を誰が担っているのかというと「会社」ではなく「社会」が担っている。

欧州の場合は、多くの国が公的職業訓練制度を持っていて、1~3年ほど訓練をうける形で業務を覚えられるようになっている(座学ではなく、実際に企業に派遣され、見習い労働をさせて慣れさせていく、というもの。逆に言えば、職務を限定した社会では、公的な制度にでもしない限り、簡単な仕事だけを切り出す、ということがとても難しいのである)。

また大学新卒の学生たちは、大学時代にインターンシップ制度を通して習熟を積むことが多く、それも日本の「ちょっと体験」というようなものとは違い、ハードな実務を1年近くやることで「育成」されるようになっている。

ちなみに日本の場合、欧州ほど公共職業訓練制度が発達してもいなければ、長期にわたるハードなインターンも大学での学業を阻害するとの理由でそこまで普及していないため(もちろん、いい悪いの話ではない)、社会システム上、「会社」が人材の「育成」を担わざるを得なくなっている。

そして最後に「職務を限定しない」ことが最も重宝されたのは、何といってもオイルショックが起きた時に発動した「雇用維持」の機能である。

日本社会の大きな特徴の1つとして、戦争の影響などから「職種別労働組合」ではなく、「企業内労働組合」の力が強くなってしまい、会社を横断した労働市場ができていないことが挙げられる。

簡単に言えば、とにかく転職がしづらいのである(また皮肉なことに「育成」の機能を「会社」が持っているがゆえに、企業独特のスキルの比率が高くなっていることも転職を妨げる要因になっている)。

そのため「職務を限定しない」で、無理やりにでも1つの「会社」の中でぐるぐると異動させた方が、結果的に雇用が守られるし、また「強制人事異動」を使えば、会社側は面倒なコミュニケーションをすべて無視して労働力を自由に配置できる、ということで高く評価されたのである。

ここまでの内容を整理しつつ、少し極端なことを言うと、現状の日本社会のシステムが変わらないままに、日本で会社が「職務(ポスト)を限定する」という選択をした瞬間、一生同じ仕事かつ同じ賃金のひとが大量に発生し(どんどん出世して、高いお給料を得るというモチベーションは失われ)、会社で段階的に仕事を学ぶことはできず(社会的に育成の仕組みが十分ではないためスキルアップすることは叶わず)、「職務(ポスト)」がなくなり次第クビにされる(社会的に横断的労働市場がないために転職もできない)という状況になってしまう、というわけだ。

ちなみに、何となくお分かりだと思うが、何の職務経験もなく、公的職業訓練や長期インターンもできない日本の新卒大学生たちは、どこの会社にも採用されることなく、失業率は高くなってしまうだろう。

「職務(ポスト)が限定された社会」は、若者にこそ厳しいのである。

参考記事:「ジョブ型」かどうか、より大切なこと
https://comemo.nikkei.com/n/nfbd3d4321353

どこまでなら許されるのか?

ここまで書いてきたとおり、「職務を限定しない」という日本独特の雇用慣行は、会社にとっても個人にとってもメリットがあるため、未だに根強く生き残っており、またそのおかげで「強制人事異動」という武器を会社側は振りかざすことができる。

とはいえ、それでは会社側は無制限に社員を飛ばしまくっていいのか、と言われると、もちろんそんなことはない。

日本においても、業務上の必要性とは別の不当な動機・目的をもってなされた異動命令は「権利濫用」として裁判で無効になったり、慰謝料の支払いが命じられたりする。

配転(異動)命令が権利濫用になる基準は、「東亜ペイント事件」の判旨に列挙された事項が参考になる。

(A)転勤命令につき業務上の必要性が存しない場合、業務上の必要性が存しても(B)転勤命令に不当な動機・目的がある場合、(C)労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせる場合

簡単に補足しておくと、まず(A)における、どこまでが「業務上の必要性」と言えるのかについて、本判決では「業務上の必要性は高度な必要性に限られない」とし、配転命令権をゆるく肯定している(そして、その他多くの裁判例もこれを踏襲している)。

具体的には、「この人じゃないと絶対ダメ!」とまでいかなくても「労働力の配置を適正にしたい」「業務の能率を上げたい」「労働者の能力開発を後押ししたい」というくらいの理由で問題ないとしている。

次に(B)については、たとえば、退職を強要する目的でのいわゆる「追い出し部屋」への異動や、会社批判の中心人物に対する報復的な異動、労働組合員への差別的な異動などが権利濫用の例として挙げられる。

ただ実際には、その異動が不当な目的なのか、業務上の必要性なのか、というのは判断が難しいことが多く、裁判で争う労力も含めて考えると、不満があっても仕方なく呑み込む、というケースは少なくないだろう。

最後の(C)については、「通常甘受すべき程度を著しく超える不利益」というのが一体どの程度のものなのか、が論点になってくる。

代表的なものの1つ目として「低賃金や低職能といった不利な配転先への異動」が挙げられる。

これは日本企業のように職能資格給(どんな仕事をしているか、ではなく、どんな能力を持っているかでお給料を決める)を導入している企業ではあまり見られないが、職務給(どんな仕事をしているかでお給料を決める)の賃金制度を導入している会社では発生する問題である。

たとえば「営業」から「人事」に強制人事異動させられて、お給料が下がってしまったとしたら、それは不利な配転先への異動になる(逆に言えば、日本は年功序列の職能資格給制度を使っているから、強制人事異動をしても不利益な配転になりにくい、という制度間の共犯関係も透けて見えてくる)。

代表的なものの2つ目は、「家族との別居を強いる転勤」である。

こちらについて、一昔前までは、要介護状態にある親や転居が困難な病気をもった家族を抱え、その介護や世話をしている従業員に対して遠隔地に転勤命令を出すことや、労働者本人が転勤困難な病気をもっているケースが権利濫用と認められることが多かった。

逆に、共働きや子供の教育などの事情で夫婦別居をもたらすような転勤命令については、業務上の必要性が十分に認められ、労働者の家庭の事情に対する配慮(住宅、別居手当、旅費補助など)をしている場合は問題ないとされていた。通勤時間の長時間化による育児の支障も「通常甘受すべき程度の(受け入れるのが普通の)不利益」と判断された裁判例もある。

しかし昨今では、少子化や労働者の健康の問題との関連で「ワーク・ライフ・バランス」の社会的要請が高まり、育児・介護休業法が制定されたことなどから、徐々に労働者が家庭的責任を負う場合には配転命令権の濫用を認めるケースも出てきているという。

つまり、日本の会社がいくらその歴史的背景と雇用システムによって「強制人事異動」を正当化しているとはいえ、その範囲がどこまで認められるかは、結局のところ、時代の流れによって変わっていくものであり、絶対不変のものではないのである。

日本で強制人事異動をやめたら、組織は壊れるか?

前置きが随分と長くなってしまったが、ここからが本題である。

ぼくの所属しているサイボウズでは、一方的な強制人事異動は存在しない。つまり、いきなり「来月から別の部署に異動だ!」と言い渡されることもなければ、勤務地の変更を命じられることもない。

では「職務(ポスト)」を限定しているか、と言われるとそんなこともない。他の日本企業と何ら変わらない、「職務(ポスト)」を限定していない無期雇用社員が大半を占めている。

そう、サイボウズは「強制人事異動」を廃止しているが「職務は限定していない」のである。

ここで重要なのは、「強制人事異動」をするためには「職務を限定していない」必要があるが、「職務を限定していない」からといって「強制人事異動」をしなければならない理由はどこにもない、ということである。

強いて言うなら、「強制人事異動」に合理性を感じるのは、「会社の方が社員より正しい選択をするはずだ」という前提を暗黙的に持っているからではないだろうか。

とりあえずキャリアアップさせればモチベーションは上がるだろうし、どんな風なキャリアを歩ませるのが最短で成長につながるかも会社の方が分かっている。また、いまどの部署で人が足りていなくて、どの部署が余っているのか、そのパズルを組み合わせることも会社の方がうまくやれる、という認識であれば、確かに「強制人事異動」ができた方が合理的だ。

しかし、何にモチベーションを感じるかなんて人それぞれだし、成長のステップやスピード感など自分にマッチする育成の仕方は自分が一番よく分かってるし、ましてや、どんな仕事に自分がマッチするかも自分が一番分かっているはずだ、という考え方があれば、そもそも「強制人事異動」なんてさせずに、社員一人ひとりに選択させる方がどう考えても合理的だ。

そしてサイボウズでは、まさに後者に相当する「自立(心)」という考え方を重要視しているため、人事異動については、「やるべきこと」「やりたいこと」「できること」がマッチする仕事を自分で選択してもらう、という運用にしている。

とはいえ、ここまで見てきたように、日本社会特有の事情もあるため、それらも加味した上で、日本企業において本人に異動を自立的に選択してもらう(強制人事異動をしない)ために必要だと思うことをまとめてみた。

①情報の非対称性をなくす
自分で仕事を選択してもらうためには、そもそも会社側と社員側が同じ情報を持っていることが前提となる。

そもそも、社内でどんな「やるべきこと」「できること」が求められているかが分からないと、自分で選択することなどできないからだ。

たとえばサイボウズの場合、経営会議の議事録が公開されているため、次に事業戦略上、どんな仕事に人が必要になって、どんな仕事が不要になるのかは社員全員が見ることができる。

また、すべてのコミュニケーションが公開されているため、他の部署がどんな雰囲気でどんな内容のやりとりをしているかも、スレッドをフォローすればすべてみることができる。

他にも「体験入部」というお試しで異動してみる制度や、各本部の仕事が載っているアプリなど、社内にどのような仕事があるのかを見えやすくするための施策なども用意されている(もちろん、まだまだ十分ではないところもあるため、日々改善している途中だ)。

②内部労働市場(社内異動)を選択することのハードルを下げる
また社内で異動をする、となった時に、強制人事異動で無理やり社内の職務を空けてあげる、ということができない以上、「やりたい」「できる」が揃っている人がいても、「やるべき」が一向に空かない、ということも起こり得る。

ただ、この場合の1つの選択肢として、サイボウズでは「兼務」という選択肢がある。たとえば、ある職務について、1人分まるまる異動してもらうにはハードルが高いが、例えば一部の仕事を兼務という形でやってもらう分にはチームとしても助かる、というケースは少なくない。

参考記事:3年間、3部署を兼務して分かったこと
https://comemo.nikkei.com/n/ne4e56615717a

③外部労働市場(他社)を選択することのハードルを下げる
最後は、サイボウズの中ではマッチする仕事がどうしても見つからない、となった時の選択肢についてである。

これについては先述したとおり、そもそも日本社会は横断的な労働市場が発達しておらず、安易に「社内で仕事が見つからなかったら、転職してください」と言い切るのが難しいのも実際のところである。

ただし、ここでもサイボウズの場合、無期雇用社員であろうと、勤務日数を週4日、週3日、と減らして徐々にサイボウズでの仕事を減らしていく、という選択肢がある(そしてもちろん、複業することもできる)。

実際、とある営業本部の部長が「社内に自分の仕事がなくなってきた」という理由で、サイボウズでの勤務日数を減らし、複数社で複業を始めたというような事例も出始めている。

参考記事:「シニア副業」を間近で見る若手社員の胸中
https://comemo.nikkei.com/n/nfefa94193f45

新しい雇用のカタチを目指して

徹底的に情報を共有することで会社と社員の情報の非対称性をなくし、また、多様な距離感をグラデーションで選べるようにすることで、選択そのもののハードルも下げる。

これにより「職務を限定しない」メリットは得つつ、「強制人事異動」ではなく、仕事を「1人ひとりが自分で選択できる」ようにする。

そうすることで、日本型雇用の良さを活かしながら、欧米社会のモノマネではない(というか、社会のシステムが違うのでモノマネだけしても意味がない)、まったく新しい雇用のカタチをつくることはできないだろうか。

情報をすべてオープンに、かつ、それぞれが多様な距離感を選択できるというインターネット的なテクノロジーと価値観を会社の中に取りこむことで、社員一人ひとりが、自分の人生を生きているという感覚を失わずに働け、組織としての強さも増す、そんなチームをつくることはできないだろうか。

もちろん、サイボウズでやっていることが、これからもうまくいくという保証はどこにもないし、今も社内では沢山の新しい問題が起こっている。

最近では、社内のあるメンバーから「自分で選択するよりも、誰かに強制的に仕事を決められた方が燃えるし、そっちの方が自分は成長できる」という声を聞いて、「強制人事異動コース」なるものを検討しようか、なんて話題も出てくるようになってきた。

自分の選択を誰かに委ねる、というのもまた選択の1つなのだ、とぼくは自分の視野の狭さにハッとさせられると同時に、大切なことに気づかされる。

人や組織は、多様である。

確かに、新しい雇用のカタチが見えてきたら、それはそれで面白いが、本当に大切なのはそういった綺麗な「パッケージ」ではなく、そこで働いている一人ひとりが自分らしく生きられ、そしてそれが会社の理想達成につながっているかを1つひとつ、考え抜くことである。

理想の雇用モデルを考えることに、もちろん意義はあるものの、結局、人事担当者がやるべきことはいつの時代も変わらない、会社の理想と個人の理想から逃げずに向き合い続けるということなのだろう。

参考文献:
村中孝史・荒木尚志 編『労働判例百選 第9版』
濱口佳一郎『日本の労働法政策』
菅野和夫『労働法 第十二版』
小熊英二『日本社会のしくみ』
海老原嗣生『人事の組み立て』
海老原嗣生『人事の成り立ち』

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