いつからあなたは日本人の代表になったの?ーけしからん日本③
ジョージアの駐日大使が、「日本の電車の優先座席が空いていたので座って、本を読ながら、ゆらゆら都心に進みます」と動画をSNSにあげた。その投稿に圧倒的な量のいいね!がついたのと裏腹に、「優先席に、どうして座っているの?」「優先席は空けとかなきゃいけない。優先席には座ってはいけない」と日本人の怪(け)しからん批判もあった
1「許せない」もいう怪しからん日本人
「そこに座るのは、怪しからん」という感覚は、日本に来られる中国人に対して向けられる批判と同質ではないか?
「中国人はうるさい」
―これも、怪しからんレベル
30年前のバブル経済真っ只中、日本人は浮かれ、世界の観光地に行ってワーワー騒いでいたのに、30年後の現在、中国人が日本に来てワーワー言っているのは怪しからんという。しかし30年前の自分たちが世界からどう見られていたのかを忘れている
お互い様である
店内に張り紙で「お静かに」と掲示するくらいはいいとしても、中国人に対して「許せない」という態度をとるのはいかがなものか?
この「許せない」も、日本社会に増えている
許せないは、怪しからんと同じ意味で、道理に反しているということ
許せないと法律違反は違う
許せないと思うのだったら、その時・その場所で注意したらいい。ただその「注意」は法律によるものでなく、お店で大きな声でお話をされると、他のお客さまにご迷惑になるのでご注意くださいとのお願いである
ところが、許せない!と言うと、なんだよ!となる。この許せないの応酬は、話し合いレベルでは解決できなく
白黒をつけようと
徹底的にやりあうことに向かっていく
怪しからん・許せないをSNSに投稿して、バズらせる。それを世論と捉える人もいるが、SNSでバズっていることは世論ではない
そのバズっているのは、X(Twitter)トレンドに関心のある人たちが参加している世界のなかでの暗号(コード)である。それも、その瞬間に、そのSNSのやり取りを見ることができる人だけの世界である。そのX(Twitter)トレンドというコミニティに参加して、ちょっとなにかを書き込んで、誰かからのいいね!を貰ったら、存在感を示せて、ちょっと満足、ちょっと良い気分になる。それって、世論でもなんでもない。しかしそれに影響をうけている人は決して少なくない
それが現代社会の一断面
2 あなたはいつから日本人の代表になったの?
怪しからん・許せないのやり取りは、突然飛躍する。たとえば韓国人のセクシーDJ痴漢騒動は次第にボルテージが高まり、日本と韓国の対立構造が浮き上がり、こんな発言が飛び出す
日本人がこんなことをしたことを
謝罪します
私が、日本人を代表して謝りますという人が現れてくる。あなた個人が謝るのは自由だけど、「日本人がこんなことをして、すいません」というのはどうなんだろうか?
いつから、あなたが
日本を代表するようになったの?
このような大きな言葉を安易に発する人が増えた。謝ることが軽くなった。一方、安易に、怪しからん許せないと言うようになつた。このように
言葉が軽くなった
かつて怪しからんで、日本が戦争に突入したこと、多くの死を招いたという記憶が日本人から薄れている。だから、平気で、安易に、韓国人は怪しからん、中国人は怪しからんと、主語を変えて大きくしていくが、大事なのは
あなたはどう思うか?
であるが、自分はどう思うのかを吹っ飛ばして、軽々しく、日本人を代表して謝罪しますと言いだす。すると、その無責任な「謝罪します」に、そうだそうだと便乗する人が出てきて、ひとつの流れが形成していく。しかしこの韓国セクシーDJ痴漢騒動に、公的な機関は参加しない。なぜか?次元が低いからである
しかし東京電力福島第1原子力発電所の処理水の放出に関する他国の対応に関しては、政府は各省庁、大使館を通じて反論する。国際会議では主張に対して主張する。なぜか?公益性が高いからである
この福島原発の処理水放出問題は、SNSでも盛り上がる。処理水の放出の是非の議論を戦わす。SNSトレンドに盛り上がっていく様子を見て、専門外のユーチューバーが参戦してくる。なぜか当事者ではない人を怪しからんと糾弾する。なぜか、本来の当事者を責めるのではなく、弱い立場の人を責めたてたりする
彼らは、普通の人とはちょっと違うアングルから、騒ぎたてる。インフルエンサーとチヤホヤされているが、彼らは専門家ではなく目立ちたがり屋の、ただ怪しからんというだけの騙りは
世論でもなんでもない
3 決めたことを梃子にも変えない日本人
SNSでのやり取りはディスカッションしているようにも見えるが、実質的には一方通行。特定の個人や組織への攻撃が主であり、議論はいつまでも平行線で終わらない
大阪関西万博2025も、そう。もう開幕に間に合わないとか中止すべきだ。一方、絶対に大丈夫だとかなにがなんでも万博は必要だ、と平行線
新聞・テレビ・ネットで、どないすんねん?と大騒ぎ。政府も専門部門も検討している。本来、物理的に準備が間に合わないのならば、会期を延期したらいい。それで、いくつかの問題が解決することもあるが
なぜか、前提条件を変えない
一回決めたら、そのままずっと最初に決めたことで押し通そうとする。いったん決めたことを変えると、安定性をなくしてしまう、バランスを崩してしまうからという
本当は、当初決めたことを変えないといけないことを認識していても、今はそれを言えない。東京オリンピックも、延期した。その前例はある。ではどうしたらいいか?と逡巡するが
なかなか決められない
世の中は、常に変わる。マーケティングはmarket+ingと書く。つまりマーケットは常に現在進行形。状況の変化、情勢の変化を観察して、分析して、機微を捉えて的確に判断するということは、会社経営ならば当たり前。だから国の政策も、臨機応変に変えたらいいが
しない
なぜか?いったん決めたことを変更すると、それを誰がなぜつくったのか?と当時の政策立案者の責任に波及する可能性もある。前任者、前々任者、先輩たちに迷惑を与えたらまずい
だから法律は易々と変えない、廃止しない
たとえ、その法律なり政策が現代的には意味がなくしていても、廃止しないことが多い。法律をつくることが官僚の評価のひとつ。だから官僚はいったん作った法律を変えない
法律はそんなに簡単にはやめたり、根本的に変えない。変えるとしても、微修正レベルに留める。そうしないと、組織のなかに不協和音が生じさせたり、不安定さが増すと心配する。だから変えない。そうこうしているうちに
組織は無くなってしまう
次回は、怪しからんをめぐる旅の最終回である