「貯蓄から投資」か。「貯蓄から逃避」か。
マイルド・キャピタルフライト
かねて筆者は「家計の円売り」こそ円相場、ひいては日本経済にとって最大のリスクではないかと論じてきました。過去のnoteでもかなり頻繁にそのテーマを取り扱っています。以下は直近の数本です:
https://comemo.nikkei.com/n/n95c965374060
https://comemo.nikkei.com/n/n5f98f89c41f5
周知の通り、この論点について、年初から注目が集まっています。新たな少額投資非課税制度(以下、新NISA)の稼働を契機として日系大手運用会社が運用する海外株式を対象とする投資信託に1日で1000億円を超える流入があったという事実と円相場の軟調地合いをリンクさせる報道も注目を集めています。実際のところ、年初来、米金利が強含む場面もあったため、円安が日米金利差を受けたものなのか、「家計の円売り」圧力によるものなのかは判然としません。鈴木財務相が言う通り、「家計の円売り」が事実として存在するでしょうが、それだけで円安が進むというのは議論の余地があります:
ですが、為替市場にとって重要なことは「皆がそう思っているかどうか」です。ケインズが株式市場を美人投票に例えたのは有名な話ですが、為替市場も同じでしょう。むしろ、ある面では株式市場よりも直情的な性質を備えた為替市場では「皆がそう思っているかどうか」は極めて重要なポイントになってしまいます。現状、「家計の円売り」は実際に出ているわけで、今後も政府の側面支援もある中、増えて行くでしょう。
但し、数字を積み上げると、円安相場と「家計の円売り」が無関係と言い切るのも難しいように感じます。非常に短期間のうちに家計部門が自国通貨売りを行い、国債を含めた自国通貨建て資産価格が一斉に暴落する場合、「キャピタルフライト(資本逃避)」という表現が使われますが、現状はそこまでの急性的な症状は出ていません。しかし、マイルド・キャピタルフライト(穏当な資本逃避)程度の表現は今後当て嵌まるように感じます。
巷間で取りざたされる「家計の円売り」とは一体どの程度の規模なのでしょうか。また、その円売り規模は円の需給環境にとってどれほどのインパクトを持つ数字なのでしょうか
相変わらず独歩安の円
2024年に入ってからの円相場の下落スピードは日本固有材料を疑わざるを得ないほど速いもので1月17日には148円を突破し、1か月半ぶりの円安水準を付けていあす。最近では好調な米経済指標とこれを受けて雲散霧消する利下げ観測が米金利を押し上げ、ドル高が進んでいます。
12月FOMCで「利下げが視野に入る」という情報発信があったからこそ、2024年の方向感は円高・ドル安であろうと考えられました(水準感は別として)。真っ当に考えれば、あれほどの急旋回を図っておきながら、単月の経済指標を受けて再度旋回を図るとは思えませんが、1月30~31日のFOMCでその姿勢に変化が無いのか注目したいところです。
年初来、為替市場で起きていることはドル高であり円安です。昨年までの円安は「ドル高の裏返し」ではなく、基本的には円全面安の結果であるとnoteでも何度か議論させて頂きました。しかし、現状は円全面安の性格を備えつつ、「ドル高の裏返し」という性格も帯びており、円安が勢いを伴うのも頷けます。ちょうど年初来2週間分の名目実効為替相場(NEER)が公表されていますので、これを元に主要通貨を比較してみると、上昇率トップはドルおよびポンドで、下落率トップは円でした。円の▲2.2%は突出した下落幅です。ドル高の余波で下落する他通貨とは異なり、やはり円は異質と言えるでしょう。ちなみに対ドルでの年初来変化率をG10通貨へ範囲を拡げて比較した場合、1月17日時点で円(▲11.9%)よりも下落幅が大きいのは南アランド(▲12.4%)、ロシアルーブル(▲22.1%)、トルコリラ(▲44.3%)といったお馴染みの面子です:
円以外のG7通貨が全て対ドルでは横ばいもしくは上昇している現状と照らし合わせれば、やはり円の現在地は相当特殊と言わざるを得ません。
新NISAに伴う円売り規模
現状、その日本固有材料の有力候補として新NISAに伴う「家計の円売り」が浮上しているわけですが、その可能性は確かに否定できないものがあります。紙幅の関係上、細かな前提や算式は割愛しますが、現在入手可能な情報に基づき、筆者は「7~9兆円程度」という数字を「新NISAに伴う家計の円売り規模」として試算しています。今後、週次・月次の証券投資統計や民間証券会社から徐々に明らかになる数字をもって試算はアップデートいたしますので、あくまで仮です。これは日本にとって小さな額とは言えません。
例えば、昨年1~11月分の旅行収支黒字合計が約+3兆円でした。ちなみにこれは暦年としての過去最大を更新する非常に大きな黒字です。敢えて国策に照らして表現すると「資産運用立国」に伴う円売りが「観光立国」に伴う円買いを凌駕したというような状況と言えます。また旅行収支を含めた経常収支という観点に立てば、1~11月分は約+17.7兆円と非常に大きな黒字でした。しかし、これらは統計上の数字です。
経常収支黒字の主柱をなす第一次所得収支黒字は筆者試算によれば25~30%程度しか円買いに繋がっていません。米国債の利子や米国株の配当金、海外子会社の内部留保などは外貨のまま再投資されてしまうにもかかわらず「統計上の黒字」として計上されています。この点を加味した筆者試算のキャッシュフロー(CF)ベース経常収支では▲2兆円と赤字でした。CFベース経常収支と円相場の関係は過去のnoteをご参照下さい:
2024年は旅行収支黒字の拡大と貿易サービス収支赤字の縮小が重なることでCFベース経常収支は若干ではあるが黒字を回復するというのが筆者想定ではあります。しかし、その若干の黒字も「7~9兆円程度」という「家計の円売り」に飲まれて、やはり円売り超過の体質が変わらないという可能性も視野に入ります。常々、筆者が懸念していた展開です。
ちなみにnoteでも過去に議論し、ようやく巷間話題となってきたデジタル関連収支赤字は1~11月合計で約▲5.2兆円、恐らく2023年通年では▲6兆円弱に仕上がりそうです。「7~9兆円程度」という円売りはデジタル赤字より大きな規模です。とにもかくにも「7~9兆円程度」は為替市場全体にとってはともかく、需給に脆弱性を抱える日本にとって大きな話です。
「家計の円売り」は一方通行
仮に「家計の円売り」が円安の原動力になっているのだとすると非常に厄介です。というのも、毎月定額で買い付け予約されている以上、そのフロー自体は止まる理由が無いからです。政策的にこれを抑止するならば為替介入やレパトリ減税のような話が出てきやすいでしょうが、そもそも「貯蓄から投資」を旗振りしているのは政府であり、だからこそ今後、時を経るごとに新NISAへの新規資金流入は増えると思います。
なお、1月18日には2024年1月7日週の対内・対外証券投資が公表されており、円売り規模という観点からも注目されました。同週の対外証券投資は2兆5577億円と2023年9月3日週(3兆8581億円)以来の買い越しを記録しています。やはり外貨建て投信の影響でしょうか。ちなみに日本株上昇については既に週間の投資家部門別が発表されていますが、個人や投信、すなわちNISA効果ではなかったことが分かっています:
なお、対外証券投資の金額はまだ目を見張るほど巨大なものではありません。しかし、年初1週目の取引としては非常に大きいという見方も可能で、ここから続伸してくる可能性は相応にあるでしょう。それほどの円売り圧力を「FRBの利下げ転換」というイベントだけで打ち返せるのかが2024年、最大の注目点となります。
「貯蓄から逃避」という現実
日本では「皆がやっている」という空気が個人の行動を駆動しやすい部分があります。今後、現状のムードに沿って参入してくる投資家層は相応にいるだろう。となると、今はマイルド(穏当)な「家計の円売り」も、ストロング(強力)な動きに変容する可能性はあります。
実体経済に目をやれば、輸入財を中心に一般物価が上昇傾向にある中、「投資」というよりも「防衛」として運用の必要性を感じる層は今後増えそうです。それは相応に合理的な判断でもあります。
防衛意識を前提にする以上、もはや「貯蓄から投資」というよりも「貯蓄から逃避」の様相ですが、そのような保守的意識に基づいた逃避行動であれば日本人と親和性が高いようにも思えます。少なくとも政府が企図した資金移動が起きていると言えますが、果たしてそれが日本経済にとって望ましいのかは別の話でしょう。
今後の円相場に対しては、やはり非常に大きな話です。新NISAを通じて外貨建て資産に買い付けされた投資は基本的に塩漬けされる「戻って来ない円」だからです。2010年以降、企業の対外直接投資が円高抑止効果をもったように、中長期的な円の方向感を縛る可能性がある。その意味で文字通り、円相場は過渡期にあると言えるでしょう。2022年3月以降、筆者が今次円安を構造的と形容してきた理由です。