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音楽が未知の世界へ飛び込む楽しさを教えてくれた 〜 気づいたら「個人内多様性」を獲得していた自分が、今までのキャリアでやってきたこと<vol.03>

いろいろな仕事に関わるあまり、自分の仕事を一言で表すのにいつも苦労する私。前回に引き続き、しばらく「日比谷のキャリアをひたすら時系列で紹介する」シリーズにお付き合いいただければと思います。

そのまま参考にしていただくのが難しいキャリアなので、変にサマらず淡々とお伝えし、「この部分は参考になるかも」というところをピックアップしていただき、いかに「個人内多様性」を有するキャリアに至ったかを紐解く参考にしていただければという狙いです。

初回記事からの引用

さて、人的資本経営の重要性が高まる中、コロナによる渡航の難しさも相まって、「組織間越境」による人材育成の有効性が語られて久しいですが、いろんなケースを見聞きするに、誰もが越境に向いてるとは思えないんですよね。で、自分はわりと「越境」は嫌いじゃ無いというか、楽しめる部類だと思うんですが、いつからそんな感じだったんだろう、、と思い返してみました。

ということで、今回は「音楽に向かい合ってたら、なぜか一人で未知の世界に足を踏み込んでた」話。以前書いたバンド編のサイドストーリーでもあります。

■どこか醒めてたバンドブーム

さて、高校時代に自ら仕掛けて事をなす楽しさ、そしてそれに伴う仲間との連帯に醍醐味をおぼえた私。当時、それを最も手っ取り早く味わう手段はバンド活動であったはずですが、天の邪鬼な私は素直にその道を行くことはありませんでした。

なぜなら、周囲はBOOWYやハードロックに夢中なこの時代。校内にはそれっぽい楽曲を演って「ライブやろうぜ!」と言う面々ばかりで、ブルースなど古い音楽への関心を日増しに高めていた私とは、微妙に趣味が合わなくなっていたのです。

初めて買ったCDはこちら

そのため、バンド活動はいったんあきらめ、巷のギタースクールで粛々と腕を磨くことにしました。

■学校の外で大きく広がり始めた世界

通っていたギタースクールでは、少し歳上のお兄さんたちとの交流が生まれました。やがてその影響もあって大学の音楽サークルに出入りするようになり、ライブハウスやジャズ喫茶に通うようになりと、活動の場は学外に広がっていきます。見ようによっては非常にアクティブな高校生活ですが、このあたりは現在と同様、一箇所に留まりたくない性分のなせるわざでしょう。

今は無きHoochieCoochie。作法も分からず潜り込んでいた。

それでも、校内で「日比谷がギターを弾けるらしいぞ」と噂が広まりはじめたことで、ちらほらとバンド参加のお声がかかります。そうした誘いに乗ったり乗らなかったり、のらりくらりと音楽に興じるのはそれなりに楽しい日々でしたが、自分の中では“バンド活動が本拠地ではない”という、わりと明確な意思があったのもまた事実です。

それはこの頃、1人で電子音楽を作成する作業にハマり始めていたことと無関係ではないのでしょう。

歳上のお兄さんたちと行動を共にするにようになってから、音楽に対する嗜好の幅は、目に見えて広がっていました。わかりやすく言えば、ただ楽曲を聴くだけでなく、その周辺知識に関心が湧いてきたのです。

■実験音楽づくりに没入する日々

折しもテクノブームが到来していたその頃。電波系とか悪趣味系などといった、従来の日本の文化に反旗を翻すかのようなサブカルチャーが台頭していました。

かくいう私も、あえて異端を目指すことにカッコよさを感じていた時期で、手持ちのMTR(マルチトラック・レコーダー)を駆使し、自分なりの電子音楽を創る作業に興じていました。いわゆる「実験音楽」というやつですね。

素材は自分で演奏した音楽もあれば、ラジオや街中のノイズを録音したものなど様々。それらを反転させてみたり、エフェクターで加工してみたり、あの手この手でいじって切り貼りして、最終的にカセットテープに収めて作品にするという趣味です。

当時、J-WAVEの深夜番組で、実験音楽や電子音響やら、インタラクティブんな作品作りなどなど、好き勝手に挑戦的な取り組みを垂れ流していたモーリーロバートソンの番組を愛聴していたこともあり、、「バンドは表の顔」で、家に帰るとひたすらノイズ音楽に没頭するという日々を送っておりました。

そうした手製の作品は、ラジオ局のコンペティションに応募してみたり、当時渋谷にあった「パリペキン・レコード」という同人音楽屋に置いてもらったりしていました。たまに見知らぬ同好の士に買ってもらえると、バンド活動では得られない満足感をおぼえたものです。もっとも、稼ぎとしては1本あたりほんの数百円程度のものですけどね。

最近発見された当時のレコード袋

こうして振り返ってみると、なんだか変わった高校生ですが、分析してみるなら、常に心のどこかで「今の場所からはみでたい」という欲求を持て余していたがゆえの行動だったように思います。気になる異質な世界に対し、勇気を出して飛び込んで見ることの楽しさを知ったのは、まさにこの頃でした。

私の会社kipplesクレドには「領域を越える」があります。「変化を厭わず、一つの場所に留まり続けない。 見方を変えるレンズとなる」という思いを込めてます。これは、「越境したら何か学べる」という思いではなく、「今いる場所より面白いところを見つけてしまった」「じゃあ見に行こう」というシンプルな行動原理で、「気付いたら越境してた」なのかもしれません。

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次回はインターネットに目覚めた大学編(の予定)です。

<気づいたら「個人内多様性」を獲得していた自分が、今までのキャリアでやってきたこと>
第1回:「誘われ力」を磨いたバンド時代編
第2回:「仕掛け人」として「連帯感作り」に目覚めた学園祭編
第3回:音楽が未知の世界へ飛び込む楽しさを教えてくれた
第4回:本格的に「デジタル」に目覚めた大学時代編
第5回:ベンチャービジネスとの出会い編
第6回:モラトリアム卒業編

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