見出し画像

学生ベンチャー全盛期に、私が起業しなかった理由 〜 気づいたら「個人内多様性」を獲得していた自分が、今までのキャリアでやってきたこと<vol.05>

いろいろな仕事に関わるあまり、自分の仕事を一言で表すのにいつも苦労する私。前回に引き続き、しばらく「日比谷のキャリアをひたすら時系列で紹介する」シリーズにお付き合いいただければと思います。

そのまま参考にしていただくのが難しいキャリアなので、変にサマらず淡々とお伝えし、「この部分は参考になるかも」というところをピックアップしていただき、いかに「個人内多様性」を有するキャリアに至ったかを紐解く参考にしていただければという狙いです。


さて、先日、「大学で起業サークルが増えている」と報じられました。大学生のビジネスコンテストのお手伝いをする機会もちょくちょくあるのですが、自分で起業するだけなく、スタートアップでインターンしたり社会起業家を目指してプロジェクトを立ち上げる方は年々増えている印象です。

私の学生時代はいわゆる第三次ベンチャーブームで、起業する先輩や仲間に囲まれながら過ごしていたのですが、その時の様子を振り返ってみようと思います。「ベンチャービジネスとの出会い編」です


■まずは先輩に誘われるところから

SFC入学後、学生たちと企業の間に立って、パソコン周りの何でも屋として活動し始めた私。黎明期にして拡大の一途をたどる当時のウェブ業界は、他業種から様々なプレイヤーが続々と参入する、ダイナミズムあふれる時期でした。

もともとはデザイナーとしてCDジャケットなどを手掛けていたKさんという先輩もその1人。ある日、「ウェブ関係の仕事を増やしてるんだけど、手伝ってもらえないかな?」と声をかけられたことで、私の活動範囲もいっそう大きく広がっていきました。

■ヒッピー志向で黎明期のウェブ業界を行く

プログラミング担当としてKさんの会社をサポートし始めたことで、手掛ける案件は目に見えて大規模なものになりました。たとえばパリダカ(ダカール・ラリー)や海外アニメーション映画の公式サイトなど、マスにアプローチするような仕事が次々に降ってきます。

名だたる企業が躍起になってウェブに先行投資していたこの時代。舞い込むオファーはどれも面白そうなものばかりで、私は時間が許すかぎり片っ端からそれらを引き受けていました。これは決して金儲けのためではなく、楽しそうな話に首を突っ込んでいたら、それで生きていけることに気がついた、というのが正確でしょう。

なお、私自身はフリーの立場を貫いていましたが、周りを見回すとネットに明るい大学生による起業が増えておりました。オン・ザ・エッヂを立ち上げた堀江さんや、電脳隊を立ち上げた川邊さんなどが代表格ですかねぇ。SFCにも何組か会社やチームが存在していたように記憶しています。私も電脳隊や他学生団体などのお仕事をさせてもらっておりました。ヤフージャパン立ち上げ時に、ディレクトリ入力のバイトやったりもしたなぁ。。

仕事としてさらなる発展を目指すなら、彼らのように起業という選択がベストだったのかもしれません。しかし、起業家志向よりヒッピー志向(集団行動が苦手というだけかもしれない)が強かった私は、法人化という発想にはまったく思い至りませんでした。

少し仕事をしてお金を稼いだら、ふらりと旅へ出る。旅から戻ったら、また仕事をしてお金を貯める。ふらふらとそんなことを繰り返すスタイルが、自分には合っていたわけです。このあたりは今もあまり変わっていませんが、金儲けよりも面白い企画に出会してはコミットできることに喜びを感じていたわけです。

■インターネット中継の黎明期にコミット

3年生になった頃、ゼミの先輩が立ち上げた学生ベンチャーを手伝うことになり、私もフリーの立場ながらお手伝いさせてもらうことになりました。これがさらにどっぷりと仕事に浸かるきっかけになります。

業務内容としてはホームページの制作やパソコン導入支援などが中心で、この頃渋谷にオープンした、日本初のインターネットカフェの運営をお手伝いしたりもしました。「縄文生活を送る人」をライブ中継したりもしましたねぇ。

また、インターネット中継の技術が出回り始めた時期でもありまして。某配信ソフトを展開するイスラエルベンチャーの日本の代理店立ち上げのサポートを担当したのも印象深い仕事です。具体的にはプロ野球の試合を中継したり、マラソン大会を中継したり。変わったところでは、レーシック手術の様子をライブ配信するようなこともやりました。

ただし、まだまだインフラが脆弱な時代で、会場からデータセンターまでは太い専用線を敷いたものの、とてもエンドユーザーまでスムーズな動画が届く時代ではありません。プロ野球中継では、ピッチャーがカクカクとした動きでボールを投げたと思ったら、次のシーンではもうランナーが塁へ出ているような状態で、ベストエフォートというには申し訳ない感じでも通用してたんですよね。

課金システムも確立していないため、当時のこうした配信はすべて無料。企業側はキャンペーンの一環としてこうした取り組みを行なっていたわけですが、すべて「日本初」と謳える施策なので、効果は絶大でした。

私たちとしても、次々に日本初のプロジェクトに携われるのは楽しいことで、この時期は多くのネット中継現場に携わりました。慶応大学のミスコン中継や、坂本龍一さんのライブ中継、企業イベントや大型カンファレンスの中継など、百戦錬磨の大人たちと同じスタートラインで新しいことにチャレンジするのは、実に刺激的な日々でした。

私の会社kipplesクレドには「探究心から」を掲げてますが、「好奇心ドリブンで、楽しみながら根を伸ばす」ことをどんどんやろうという想いを込めております。学生当時の仕事の原動力は「稼ぎたい」よりは「好奇心」でしかなかったように記憶していますが、その頃も今も変わってないのかもしれません。


次回はそんな仕事どっぷりの大学時代から社会人に踏み出すことになる「モラトリアム卒業編」です。

<気づいたら「個人内多様性」を獲得していた自分が、今までのキャリアでやってきたこと>
第1回:「誘われ力」を磨いたバンド時代編
第2回:「仕掛け人」として「連帯感作り」に目覚めた学園祭編
第3回:音楽が未知の世界へ飛び込む楽しさを教えてくれた
第4回:本格的に「デジタル」に目覚めた大学時代編
第5回:ベンチャービジネスとの出会い編
第6回:モラトリアム卒業編


いいなと思ったら応援しよう!