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バックパッカー編 〜 気づいたら「個人内多様性」を獲得していた自分が、今までのキャリアでやってきたこと<vol.07>

いろいろな仕事に関わるあまり、自分の仕事を一言で表すのにいつも苦労する私。前回に引き続き、しばらく「日比谷のキャリアをひたすら時系列で紹介する」シリーズにお付き合いいただければと思います。

そのまま参考にしていただくのが難しいキャリアなので、変にサマらず淡々とお伝えし、「この部分は参考になるかも」というところをピックアップしていただき、いかに「個人内多様性」を有するキャリアに至ったかを紐解く参考にしていただければという狙いです。

世の中はニューノーマルに突入し、インバウンド受け入れの話は盛り上がる一方、円安も相まって他国に出るハードルは高くなっているようです。

先日、トビタテの方々と意見交換する機会がありましたが、やはりこの数年は留学生の数は激減とのこと。失われた数年を取り戻すべく、プログラムの強化にあたっているとのことでした。

“上昇基調にあった日本人大学生の留学数は2020年度に前年度比98%減となるなど、新型コロナウイルスにより大きな影響を受けました。“

https://tobitate.mext.go.jp/nextstage/ 

他方、PMI関係の中堅官僚や弁護士の知人たちはこの数年も果敢に海外留学に出ており、強い意志や意図、覚悟を感じます。この数年間で海外経験を得られなかった学生の方々には、留学とは言わずとも、ぜひ機会を作って海外経験を踏んでいただきたいと思う次第です。


ということで、閑話休題。就活シーズンに向けて周囲が慌ただしくなってきた頃、モラトリアムに身を委ねていた私は、暇さえあれば海外へ出かけていました。時期にして、大学3~4年の頃ですね。

親しい友人知人からは、将来のことを真剣に考えない、さぞいい加減な人間と思われていたことでしょうが、実際にはこの時期にあちこちの国を渡り歩いた経験が、いまの自分に影響を与えているように感じます。

というわけで、今回は番外編。当時の海外放浪体験について、少しまとめておきたいと思います。

■初めての海外でボッタクられる

プロマネ的にITワークをこなしながら、少し小銭が貯まったら休みをとって海外へ行き、懐が心許なくなったら帰国してまた働く、というのが当時の私の大まかな旅行スタイル。あまり集団行動が好きではないこともあり、最初のうちは友人を1~2人伴っていましたが、これがやがて一人旅に変わります。

一度の旅行はたいてい2~3週間程度で、長くても1ヶ月ほど。目的地に具体的な何かを求めていたわけではなく、面白そうな物や事に出会えれば幸いという、非常に曖昧でフラットな旅でした。

最初の旅先は、大学の仲間に誘われて訪ねた韓国。私にとってこれが初の海外渡航で、何もかもが物珍しく見えたことを覚えていますが、現地で知り合ったオレンジ族(※親の金で豪遊する若者を当時向こうではこう呼んでいました)のお兄さんに案内されるままカラオケ屋で飲み食いしていたら、5人で40万円ほどボッタクられるという、苦い経験もありました。

学生の身分ですから、誰もそんな大金は持ち合わせてはいません。どうにか交渉の末に有り金だけで勘弁してもうことになりますが、プンスカ腹を立てている他のメンバーとは対象的に、私はこんな体験も含めて初めての海外旅行を心底面白く感じていました。もちろん、お金はもったいないし余計なリスクは負いたくありませんが、持ち前の好奇心が先に立ち、国内旅行とは別腹の面白さをそこに見出してしまったのです。

中国の内陸をウロウロしてたところ。通りかかった旅行者が撮影してくれた。

これにより海外への関心を高めた私は、仕事で稼いだお金を携えてタイ、台湾、中国、香港、シンガポール、マレーシア……などなど、アジアを中心に暇さえあればバックパッカー旅行を楽しむようになります。

■就活シーズン中も積極的に海外へ……

周囲からだいぶ遅れて就活に励んでいた4年生になってからも、海外への興味は高まるばかり。

就活の間隙を縫って訪ねたドイツでは、現地滞在中に「しまった、明日は最終面接があるんだった!」と思い出し、慌てて帰国したこともありました。ちなみにこの時はスーツに着替える余裕がなく、カーディガンのまま面接を受けるという体たらくで、返す返すもよく内定をもらえたものです。

どうにか就活を終えた4年生の夏には、米ボストンに2カ月の短期留学も経験しました。目的は英語を学ぶこと。旅行ではなく留学だったのは、就職を決めたからにはこのタイミングを逃すと、もうまとまった時間は取れないだろうと踏んでのことです。

ホームステイ先のMと

ちなみにこの留学先でも、最後の最後に私はやらかしています。帰国前にワシントンにある父の知り合い夫婦の家を訪ねて1週間ほどごやっかいになったのですが、帰途につくため空港へ車で送ってもらう途中、予定していたフライトをすでに逃していることに気がついたのです。ちなみに到着した日は内定式でした。

そこでご夫婦に、「内定式くらい出なくてもいいと思うので、明日また安いチケットを探します。申し訳ないですがもう1泊させてもらえないでしょうか」と頼み込む私。しかし奥様が「内定式は大切よ。お金は出してあげるから、いますぐ次のフライトを取りなさい」と割高なチケットを買ってくれて、どうにか内定式に滑り込む事ができたのでした。

チケット代は後日ちゃんとお返ししましたが、どうにもスケジュール管理が甘すぎる学生生活だったわけです。

■返還前の香港で出会ったレコード屋のおじさん

このほか、治安の悪いジンバブエでボディガードに守られながらマーケットを見に行き、呪術用のネズミや干したコウモリを目の当たりにしたのも貴重な思い出ですが、とりわけ気に入ったのは3~4回ほど訪れた香港でした。

ジンバブエ。当時は治安も安定してたけど、屈強なガイド兼ボディガード(写真左)が一緒じゃないと出歩けなかった。

返還目前の香港は当時、返還前のお祭りムードとあちこちで開発が進む最中で、独特のエネルギーと猥雑さを感じさせました。「重慶大厦(チョンキンマンション)」なる香港でもディープと呼ばれる外国人向け安宿に泊まったり、そこら中で当たり前のように商売している違法CDROM屋を物色したり、混沌とした空気に身を置くことが私にはとにかく楽しかったのです。

香港の路上

ある日、バードストリートで中古レコード屋を見つけました。バードストリートとはその名の通り、観賞用の小鳥を売る問屋がたくさん軒を連ねている場所で、返還後は香港政庁の都市化政策により、小規模で小綺麗な通りになってしまいましたが、当時は猥雑の極みを感じさせる私好みのスポットだったのです。

その中古レコード屋に入ってみたのは単なる気まぐれでした。オーナーは李さんという日本語が堪能な推定40代の男性で、何気ない会話を重ねるうちにすっかり意気投合。帰国後もメールでやり取りを続け、香港を訪れるたびに一緒に食事をし、時には家に泊めてもらうこともありました。現地で出会った人とこうした交流を育めるのも、旅の大きな醍醐味ですね。

季さんと香港の露店

ちなみに、私が渋谷でロックバーを営んでいた時、この李さんと20年ぶりの再会を果たしました。李さんが日本へやって来るというので店にご案内したのです。棚にはあの頃、李さんの店で買ったレコードもいくつか並んでいました。

来日した際にロックバーに遊びに来てくれた季さん。

最近は当時ほど海外へ出向く機会が作れずにいますが、その分、日本の各地域を訪れることが増えました。その土地を知ること、そして人と出会うことへの関心はいまも変わらず、私の大切な行動原理のひとつになっています。


次回は、ようやく社会人編が始まる予定ですよ。

<気づいたら「個人内多様性」を獲得していた自分が、今までのキャリアでやってきたこと>
第1回:「誘われ力」を磨いたバンド時代編
第2回:「仕掛け人」として「連帯感作り」に目覚めた学園祭編
第3回:音楽が未知の世界へ飛び込む楽しさを教えてくれた
第4回:本格的に「デジタル」に目覚めた大学時代編
第5回:ベンチャービジネスとの出会い編
第6回:モラトリアム卒業編
第7回:バックパッカー編

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