「個人パーパス」という綺麗ごとの先に
今回は、日経朝刊の投稿募集企画で、「#あなたの個人パーパスは」というテーマが取り上げられていたので、それに関連する意見を投稿したい。
「個人パーパス」はちょっと重い
パーパスとは「存在意義」という意味の言葉だ。
会社がある特定の目的を達成するために集まった集団である以上、それを「パーパス」と呼んでいるかどうかは別として、その組織の存在意義は大抵の場合、言語化されている。
参考記事:パーパスだとか、カルチャーだとか
最近では、こうした会社のパーパスだけでなく、そこに個人のパーパスを重ね合わせることに注目する企業も出始めている。
幾つか記事を読んでみると、どうやら会社の存在意義と個人の存在意義を重ね合わせることができれば、どんなに多様な人材が集まっていようと、テレワークで顔が見えなかろうと、モチベーション高く(=生産性高く)働いてもらうことができるのではないか、という文脈で注目されているようだ。
ただ、正直、これだけ聞くと綺麗ごとのようにも聞こえる。
「個人のパーパス」を直訳すると「個人の存在意義」ということになるが、そもそも自分自身の存在意義を定義・言語化している人など、一体どれくらいいるのだろうか。
もちろん世の中には、「○○な社会をつくりたい」という強い志を掲げ、そのために自分は存在している、と言い切るような人もいるが(それも素晴らしいことだとは思うが)そんなに多くはないと思われる。
また、人が生きていくうえで全員が「存在意義」を求められるというのも、それはそれでちょっと気持ち悪い。人に「存在意義」など求めずとも、生きているだけで十分、とする見方もあるだろう。
個人的には、無理やり「個人パーパス(=存在意義)」という強い言葉を使わなくても、会社の目指す方向性と、個人がこうなったらいいなと思っていることがマッチしているくらいで十分な気もする。
というわけで、ここからは少し肩の力を抜いて、「個人パーパス」を「個人が『こうなったらいいなと』と思っていること」くらいのゆるい意味で解釈しながら、話を進めてみたい。
会社と個人のパーパスが重なるところ
ぼくの働いているサイボウズでは「チームワークあふれる社会をつくる」を自社のパーパスと定義している。
それでは、どんなチームワークをあふれさせたいかといえば、「理想への共感」「多様な個性を重視」「公明正大」「自立と議論」といった文化を大切にするチームワークだ。
理想に共感する人達が集まり、1人ひとりの多様な個性に目を向け、嘘がなくオープンな信頼し合える関係性のもと、何か問題があれば自立心をもった人達が建設的に議論を重ねることで、組織としての理想(成果)も、個人としての理想(幸せ)も両方達成できるような、そんな新しいチームワークの形を世の中に広げていくこと。これがサイボウズのパーパスである。
サイボウズが目指すチームワークの要素の中でも、「理想への共感」という部分は、今回のテーマである「会社と個人のパーパスの重なり」に近しいものがある。
この「理想への共感」がチームワークの大事な要素に入っている背景には、創業者の青野の経験則がある。
2005年、経営危機に直面し、会社の再生に頭を悩ます中、青野がたどり着いたのは「人間は理想に向かって行動する」という法則だったという。
「理想」とは、その人が望んでいる未来だ。すべての人は、自分が望んでいる未来に向かって行動する。理想とは、言い換えれば「夢」であり、「目的」であり、「目標」であり、「ビジョン」であり、「欲」である。表現方法こそ違えど、同義の言葉だと気付いた。その人が「こうなるといいなあ」と思うものすべてが「理想」であり、人はその理想を実現したいがために行動する。実現したくない理想に向かっては行動しない。
――青野慶久『チームのことだけ、考えた。』(ダイヤモンド社)
このとき、共通の理想を持った仲間であれば、多様な人たちが集まっても、決してバラバラになることなく、組織としてのパフォーマンスを最大化し、個人としての幸せも両立できる、という信念が生まれたそうだ。
現在も、サイボウズの目指す理想に「いいね!」と思ってくれていることは、チームサイボウズに所属する上での前提条件になっている。
ぼく個人のパーパス
ぼく自身は今のところ、サイボウズという会社のパーパスと自分のパーパス(=こうなったらいいなと思うこと)は重なる部分があると思っている。
「存在意義」というほど大それたものではないが、ぼくなりに目指している社会の姿がある。
それは「日本の会社(特に大企業)の閉塞感をなくすこと」である。
もっと具体的に言えば、ぼくは日本の会社で働いていても「1人の人間として重視されている感覚」を持てるような社会になればいいなと思っている。
参考記事:僕はなぜトヨタの人事を3年で辞めたのか
大きな組織に所属している以上、業務が細分化されるため自分の仕事がどんな風に理想に繋がっているか分かりづらくなったり、沢山の人がいる中で自分の影響力を卑小なものに感じてしまったり、あるいはコミュニケーションコストの問題から一律の枠・制度に当てはめられてしまったり、というような事態はどんな会社でも起こり得る。
特に会社側の人事権が強い日本の大企業の場合、構造上、そもそも自分で働き方(職務、時間、場所)を選択できる余地が限られている、という側面もあるだろう。
参考記事:「全社員ジョブ型」に問われる覚悟
こうした組織で働いていると起こる「1人の人間として重視されている感覚の希薄化」は、本当に「仕方のないこと」なのか?
それが、ぼくの根底にある疑問だった。
少し話は脱線してしまうが、ぼくは1994年生まれの、デジタルネイティブと呼ばれる世代にあたる。
生まれた翌年にWindows95が発売され、小学校ではPCの授業でネット掲示板で色んな人の意見に触れ、中学生の時にはガラケーを持ち、高校に入る頃には同級生は自分のブログを開設していた。大学では、誰もがスマートフォンを持ち、FacebookやTwitter、LINEなど、個人が自由に意見を発信できるSNSは、もはや社会のインフラとなっていた。
つまり「社会」という組織は、すでにインターネットの影響で「個人が重視される」のは当たり前だった。さらに情報技術の進化によって、1人ひとりの個性にパーソナライズされたサービスが増え、コミュニティとの距離感も自分で選択できるようになってきた。
そんな環境で育ってきたこともあって、最新の情報技術とインターネット的な価値観を会社組織にインストールすれば、会社の成果も挙げつつ、1人ひとりも個人として重視されている感覚を持つことができる組織は作れるのではないのか、という仮説を持つようになった。
そしてぼくはいま、サイボウズの情報技術を活用した組織づくりの中に、その閉塞感を打破するヒントがあるのではないかと思っている。
たとえば、サイボウズでは自社のアプリケーションを使いコミュニケーションコストを下げることで、多様な距離感を認められるよう、個別に条件を合意するようなしくみを構築している。
参考記事:情報技術で「正社員改革」に福音を
これは「大組織の中で自分の存在がちっぽけに感じてしまう」という、あの感覚を払拭することにつながるのではないか、と個人的には期待している。
正直、組織が大きくなっていくに従い、細分化された業務の中で自分の組織への貢献度など小さいものだと思ってしまう気持ちや、自分が無数にいる社員の1人にすぎないという感覚を持ってしまうことは、ある程度仕方のないことだと思う。サイボウズも1万人、あるいは10万人という規模になっていけば、同じようなことを感じる社員も増えていくだろう。
しかし、ぼくは思う。それはある1つの組織に所属していることだけをアイデンティティに置いた働き方しか選択肢がないからではないか、と。
会社は、1人の人生という立場から見れば、あくまで多数所属している組織の1つにすぎない。学生時代からの友人、趣味が同じ仲間、家族、SNSのコミュニティ、あるいは今の時代、複数社に所属しているという人もいる。
大きな組織に所属し、その組織に時間も場所も、何もかもフルコミットすることを求められれば、会社の中で自分が重視されていないと思った瞬間、自分のすべてが否定されたように感じてしまう。
でも、人によって会社との距離感を選択することができれば、つまり、人によって他の組織に所属する時間を増やすという選択肢が増えれば、複数の居場所ができることで、「1人の人間として重視されている感覚の薄さ」は減っていくのではないかと思うのだ。
また、もちろん大前提として、そちらの方が会社としての、あるいは、日本社会全体としての生産性が向上するのではないか、という仮説もある。
他にも会社組織の「閉塞感」をなくすために、ぼくが考えていることは沢山あるため、今後も、社内にあるしくみや新しく発見したこと、あるいは自分の考えをどんどん発信していきたいと思っている。
ぼくにとっては、サイボウズで働く人が「1人の人間として重視されている感覚」を持ちながら、かつ、チームとしての生産性も向上させていける組織づくりを進めていくことこそが、直接的にぼくの目指す社会につながっていく、ということになる。
……とまあ、ここまで、随分と綺麗ごとを並べてきたのだが、「じゃあ、お前はパーパスの重なりだけで自分のモチベーションを維持し続けているのか」と言われたら、正直、まったくそんなことはない。
研修のフィードバックに辛辣な意見を書かれて落ち込むこともあれば、出向契約書を作成している際に、他社との細かい労働条件のすり合わせが億劫で「むきー!」となることもある。
労働時間に関する長文の問い合わせを受け、「この回答、結構時間かかるな、、めんどくさいな、、」と思うこともしばしばだ。
そんなとき、前述したように「この仕事は、ぼくの目指す世界につながるんだ!」という崇高な気持ちで頑張る時もあるにはあるのだが、あくまでそれは数多あるモチベーションの1つでしかなく、正直なところ、「給料もらってるからやるしかねえ!」と自分を納得させることもある(というか、ぶっちゃけ、そっちの方が多いかもしれない)。
結局のところ「働くモチベーション」という観点で重要なのは、お金、人間関係、仕事内容、ロケーション、福利厚生など、いま自分が何を大切にしたいと思っているのか、どんなことに優先順位をつけているのか、そうした価値観をしっかりと認識した上で、今の組織に所属している納得できる理由を自分自身で説明できるかどうかなのだと思う。
「個人パーパス」はあくまで、その中の要素の1つにすぎない。
自分のパーパス的なものがあり、会社のパーパスと重なりを見出すことができれば、日々の仕事を楽しむ観点が1つ増える可能性がある。
「個人パーパス」とは、それくらいのゆるさでつきあうくらいが、やっぱり、ちょうどいい気がする。