異動範囲を労働条件として明示することに意味はあるか?

厚生労働省が、入社後に異動の可能性がある範囲を、労働者に事前に明示することを義務づける検討を始めた。

労働条件を明示する際、最初の勤務地、職務だけでなく、将来的に異動可能性のある範囲まで示すことで、コミュニケーションの齟齬を未然に防ぎ、勤務地限定、職務限定といった多様な働き方を後押しする狙いがあるという。

ただ、今回の明示義務化について、「会社の定める場所」という曖昧な表現も許容されているため、本質的にはこれまでどおりの運用と変わらず、何の意味もないのではないかという声や、余計な手間が増えるだけなのではないかという意見も耳にする。

そんなわけで今回は、労働条件の異動範囲明示が義務化されることについて、思うことを書いてみたい。

労働条件を明示する意味

そもそも企業は雇い入れの際に、労働者に労働条件を明示する義務がある。

労働基準法第15条第1項には、「使用者は、労働契約の締結に際し、労働者に対して賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない」と規定されている。

労働条件を書面(言葉)に落として、会社と労働者双方で合意しておくことは、条件に関する認識の齟齬をなくし、コミュニケーショントラブルを防ぐことにもなる。

労働条件の絶対的明示事項(書面により明示することが必要な情報)は以下だ。※(4)の昇給に関する事項を除く。

(1)労働契約の期間に関する事項
(2)就業の場所及び従業すべき業務に関する事項
(3)始業及び終業の時刻、所定労働時間を超える労働の有無、休憩時間、休日、休暇並びに労働者を二組以上に分けて就業させる場合における就業時点転換に関する事項
(4)賃金(退職手当及び臨時に支払われる賃金等を除く。)の決定、計算及び支払いの方法、賃金の締切り及び支払の時期並びに昇給に関する事項
(5)退職に関する事項(解雇の事由を含む。)

つまり、今もすでに、働き始めたあと、どんな場所で、どんな業務をするのか、といった条件については明示しなければならないのである。

しかしながら、日本の場合、他国と違って会社が強い人事権を持っており、労働者が同一企業内で長期的に勤務する過程で、個別労働者への人事権の行使として、勤務場所や職務が次々と変更されてしまう、という特徴がある(いわゆるメンバーシップ型雇用)。

よって、日本企業の労働条件通知書には、就業場所や業務内容の欄に、最初の配属や勤務場所に加えて「ただし、業務の都合により、就業場所を変更することがある」「人事異動により変更の可能性がある」「研修後に、会社が配属を決定する」などといった文言が並んでいることが多い。

こうした日本だけに見られる労働条件の「無限定」性は、(特に高度経済成長期において)日本企業の大きな競争力の源泉になっていたとされる一方、「ワークライフバランスの欠如」や「企業封鎖性(性別や年齢によって会社に入ったり、勤め続けるのが難しくなること)」といった、いくつもの問題を引き起こしてきた。

参考記事①:情報技術で「正社員改革」に福音を

参考記事②:「男性育休」はなぜ進まないのか

そのため、こうした「無限定」な契約以外の働き方、つまり、労働条件を「限定」した働き方の選択肢を増やしていくべきだ、という議論もこれまで長らくおこなわれてきた。

限定正社員とは何か

「限定正社員」とは、その名のとおり、労働条件を限定した正社員(直接雇用、期間の定めなし)のことを指す。

「限定正社員」という考え方自体は、特に目新しいものではなく、男女雇用機会均等法などの影響もあり、少なくとも1980 年代には「コース別雇用管理」「複線型人事管理」「勤務地限定社員制度」といったかたちで、複数の正社員を活用する企業が登場していた。

ただし、その活用実態は女性に限定されており(いわゆる一般職)、そもそも全体の割合からしても、正社員のマジョリティは「無限定」な働き方(いわゆる総合職)だった。日本以外の国では寧ろ、勤務地や職務内容を限定した働き方の方がマジョリティであることを考えると、改めて日本の特殊性が際立ってくる。

2014年に厚労省がまとめた「多様な正社員」に関する資料には、「限定正社員」の種類、そして、「いわゆる正社員(無限定正社員)」との違いが以下のように記載されている。

◆ 勤務地限定正社員:転勤するエリアが限定されていたり、転居を伴う転勤がなかったり、あるいは転勤が一切ない正社員
◆ 職務限定正社員:担当する職務内容や仕事の範囲が他の業務と明確に区別され、限定されている正社員
◆ 勤務時間限定正社員:所定労働時間がフルタイムではない、あるいは残業が免除されている正社員
◆ いわゆる正社員:勤務地、職務、勤務時間がいずれも限定されていない正社員

同資料内では、多様な正社員(限定正社員)を導入・運用している企業はすでに約5割に達しているとし、導入の理由として「優秀な人材を確保するため」や「従業員の定着を図るため」、「仕事と育児や介護の両立(ワーク・ライフ・バランス)支援のため」等が挙げられている。

なぜいまさら異動の範囲を明示するのか?

さて「労働条件の明示」「限定正社員」に関する背景を確認したところで、改めて、今回厚生労働省が検討している「異動範囲の明示義務化」について考えてみたい。

2019年6月に内閣府が公表した「規制改革推進に関する第5次答申」の保育・雇用分野には、「ジョブ型正社員(勤務地限定正社員、職務限定正社員等)の雇用ルールの明確化 」という項目が入っている。

ここでの「ジョブ型正社員」とは「職務、勤務地、労働時間のいずれかの要素(又は複数の要素)が限定される社員」と定義されており、いわゆる日本以外のジョブ型雇用社会に近い働き方を選択肢として促進していくことが謳われている(要するに、ここまで見てきた「限定正社員」である)。

少しずつ各企業で導入が進み始めている「限定正社員」という選択肢を、さらに活用しやすい環境にしていこう、というわけだ。

昨今、「ジョブ型」という名前で人事制度を改革する企業が出始めており、これまでその内実は職能等級を職務等級と言い換えて賃金に若干職務給の要素を入れただけであったり、採用の段階で職種別採用を行うだけだったりと、ジョブ型雇用社会の本質的な部分である「労働条件の限定」にまでは踏み込んでいない事例が多かったが、最近では、本当に職務や勤務地を限定する形での運用を想定した企業も出始めている。

職能ごとに事前に決めた区分内に異動を限り、スキルの向上を促す。原則、転居を伴う転勤をなくす。専門人材は本社で需要の高い新事業開発部などに配置し、職務を限定しない「メンバーシップ型雇用」の社員と協働させる。
(中略)
入社から6年間は事前に決めた区分内で経験を積み、7年目からジョブ型かメンバーシップ型か選ぶ。

参考記事:「全社員ジョブ型」に問われる覚悟

つまり、今後さらに職務や勤務地を限定した、多様な正社員の在り方が加速していく可能性があるということだ。

ここで改めて重要になってくるのが、労働条件の「合意」である。

勤務時間や勤務場所、職務内容を「限定」するということは「どこまでは許容できて、どこからは許容できないか」という境界線を引くということである。その境界線を会社側と労働者側でしっかり握っておかないと、後になって「そんなの聞いてなかった」というトラブルになりかねない。

しかし「正社員であれば企業の命令による無限定な働き方を許容するのが当然」という意識がいまだに根強く、これまでの雇用慣行の影響から実務的にも契約意識の低い日本企業では、当事者はいつ、どのような内容の労働契約がどのようにして締結されたのかを明確に意識していないケースが多い。

厚生労働省の調査によれば、実際に職務が限定されている場合であっても47.6%の企業ではそれが就業規則や労働契約で明文化されておらず、また勤務地の限定に関しても同様に、69.2%の企業で就業規則や労働契約で明文化されていないという。

つまり、すでに「限定正社員」を導入している企業の半数近くが、その限定範囲を社員に明示的に伝えていない(認識をすり合わせて合意できていない)のである。

先述したとおり、日本企業独自の雇用慣行のもと、限定正社員に関しても、会社側が曖昧な運用を許容して合意範囲の認識に齟齬を生んでしまうことは職務や勤務地等の限定条件をめぐる紛争の原因になる。だから今回、異動範囲まで明示化していく、という話が出てきているわけだ。

社員1人ひとりと向き合うきっかけになるかもしれない

ぼくが働いているサイボウズでは、本人の意向を聞かないままに会社側で一方的に勤務地を変更したり、職務を変更したりすることはせず、労働条件を都度個別に合意する、という運用をとっている。

そのため、労働条件のコミュニケーションに関しては、(まだまだ改善の余地はあるが)コストをかけて丁寧に行うことを心掛けている。

毎年、給与評価の時期になると「働き方(時間・場所)」「業務内容」「給与」といった条件について、本人からの希望を「条件コミュニケーションアプリ」に改めて記載をしてもらったうえでチーム側から条件をオファー、合意する(この際、恣意的な合意にならないように、組織を横断した評定会議や、市場賃金データの提供などを行っている)。

またサイボウズでは年の途中であっても、チームと合意できれば働き方(時間・場所)を変更することができ、その際にも、都度、その「働き方」でできる「業務内容」、それを踏まえた「給与」を合意し直している。

こうした年に1回の給与評価の時期や、働き方の変更に伴う条件変更があるときは、その都度、新しい労働条件(業務内容、働き方、給与)をアプリケーション上で本人に通知する。

会社と労働者の合意が変わる都度、個別に労働条件を明示している、ということになるかもしれない。

これが一律全員、大したコミュニケーションをとらずとも、会社命令で自由に職務も勤務地も変更できるのであれば随分と楽だろうが、少子高齢化、グローバル化、デジタル化といった大きな社会変化が起きている中で、これまでどおりのやり方を持続するのは難しくなってきている。

参考記事:マイノリティのために働き方の選択肢を増やす意味

今回、議論に挙がっている「異動範囲の明示義務化」も、言い換えれば「今までよりも丁寧に、社員一人ひとりと労働条件についてコミュニケーションをとりましょう」ということだ。

これをきっかけに、改めて会社と社員の関係性の理想を問い直し、今まで曖昧にしてきた合意内容が言語化されたり、限定正社員の導入に関する議論が始まったりする、ということもあるだろう。

サイボウズでも現在、より一人ひとりのメンバーがチームと何を合意しているのか分かりやすくなるよう、雇用契約書の表現も含めて、見直していくことを検討している。

ぼく自身、そのプロジェクトを担当しており、合意の内容を細かく言語化していくことは正直、地道で面倒な作業ではあるが、より多様な形でチームと個人のマッチングを最適化していくためには、どこかで必要な成長痛なのだと自分に言い聞かせてやっている。

異動範囲の明示義務化が現実のものになったとして、そこにどれだけの意味があるかは分からないが、社員一人ひとりと、より丁寧に向き合うきっかけにはなるかもしれない。

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