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その責任のとり方でええんか?―ごめんで済んだら警察はいらん
「大変ご迷惑をおかけしました。私が責任者として一刻も早く、問題の収拾をはかり、原因を究明して、再発を防止します。それが私の責務です」
そんなトップの責任のとり方が最近増えている。昔、親からこう怒られたー「ごめんで済んだら警察はいらない」
そんな親の言葉が聴こえてくる
1 有耶無耶にして先送りするニッポン
「事態を収拾することが私の責任」
ソトとウチの見え方が違う。
社会からは「それはあかんで」という声が吹き出るが、会社のなかでは「トップが悪い訳じゃない。あいつが悪いことをしたのであって、トップは辞めなくていいんじゃない」とおさめようとする
そういう責任のとり方を赦す
という風潮がいつからかできあがった
失敗したら「消える」のが
責任のとり方だった
再起は、他で図るのが
これまでの世の常だった
そうではなくなった
企業の不祥事にあたり、辞めずに、こういう
「問題を解決するのが経営者である私の責任だ」
不祥事のときの責任者本人が
後始末をするという
意味が分からない
有耶無耶にする構造
「この困難な事態を収拾することが私の責任である」
組織の不祥事に、トップがこういう
しかし
あなたがトップにいて、そうなった
トップのあなたは、それを管理できなかった
だからあなたは去って
次の人が
「なにがおこったのか」
「なぜそうなったのか」
を総括するのが物の道理
なのに不祥事の責任者が変わらなければ
有耶無耶(うやむや)になる
日本は昔からそうだったというが
そうではない
「腹を切る」
「自腹を切る」
という言葉が現在に残る
責任の取り方を意味する
文字どおり、「切腹」に由来する
封建時代の道徳観念で
不始末がおこった場合は
自らの責任を判断し
自らおよび家の名誉を保つ
という社会的意味から
「腹を切る」という責任のとり方をしてきた
日本人の
責任のとり方が軽くなった
企業の不始末に対して
責任をとるべき人が
責任をとらなくなった
トップに対して、厳しく糾弾すると
いつか自分も厳しく責められる
だから「しょうがない」と赦す
それで赦されたら
「いや…助かったよ。君たちのときもそうするからな」
トップのそういう責任のとり方を赦すと
真似をするトップがあらわれる
こうして、順繰りに、責任回避して
経営陣は長期政権化する、院政を敷く
だから会社は、組織は、世の中の変化に対応できなくなった
2 責任とはなにか?
リーダー1人で、組織が劇的に変わる場合がある
リーダー1人では、なにも変わらない場合がある
世界は強いリーダーを求めるが
もはやリーダー1人で
導かれ得ないくらい
複雑、多様化している
リーダーが必要だとすれば
失敗、敗北の責任を負う
ことくらいだろうか
日本のトップの責任の取り方はどうなのだろう
一部の経営陣を入れ替えるだけではなく
経営陣を一斉に交代して
バブルを知らない世代に
スマホ世代に
経営を任せたらどうなのか
世界と同じように
潔く
経営陣が一斉に代わったとしても
会社は 潰れない
自分たちがいない
と会社はまわらない
自分たちはいちばんエラい
と思い込んでいるのが滑稽
その地位を得るまでに
必死に努力してきたのだから
無理難題に我慢してきたのだから
簡単には、手にした地位を手放さないぞ
かもしれないが
その結果が、不祥事となった
それでチャラ
どんな積み重ねも
瞬時でチャラとなる
責任者にはこの覚悟が必須
地位や金で
いったい何ができる?
瞬時でチャラになるくらいに
諸行無常
報酬は
ひとの真価を示すものではなく
権力は
あるようでないもので
簡単にひっくりかえるもの
3 日本性は混ざりあいが本質
万物は平均化する運命がつきまとう
質の高いものは
低いものと混ざりあい
普通に収斂する
純粋なものは
多様なものと混ざりあう
大量に外国人が押し寄せて
日本が変わってしまうと
心配している
それほど、現代日本の日本性は
特殊で、か弱いコンセプト
だというのかもしれない
かつて明治維新で
全国の旧藩から
大量に人がなだれこんで
江戸気風、風情をなくした
東京みたいなもの
先に住んでいただけ
と考えて
多様化し変化する社会に
適応しようとすることが
現代日本に必要ではないか
縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良時代に
朝鮮半島・中国大陸から
大量の渡来人が日本に移住して
日本が形されつづけてきたのは
歴史的事実
現代日本人はそれを忘れている
4 楽しい日本を求めるのはおかしいのか?
21世紀も4分の1が経過しようとしている。この間、日本はどう変化したのか。新世紀の初頭前後、銀行経営と日本経済が危機に直面したことを契機に、「ゼロ金利」の世界が始まった。ようやくのこと、このゼロ金利は終わったが、では日本は良くなったのか。現実には新旧の課題が山積し、そこから新たな危機が忍び寄ってきた
この新旧の課題は
みんな、うすうす気づいている
が、緊急な変化は訪れないだろう
との楽観が支配的
サラリーマン経営者も
首長も、官僚も、自分の任期中には
急ブレーキや空中大回転が
起こらないと信じている
しかし既存の枠組みがリセットして
超高齢社会への対策負担
人口減少・縮退社会への対策負担
が加速して、目に見えてくると
やがて国民が立ち竦み
「どうなっているんだ」
「どうするんだ?」
となったときに
国は、また混乱と大変化が生じる
この大変化への対応をしくじれば
国は滅亡にむかう
エジプト、メソポタミア、インダス、古代中国
古代ローマ、モンゴル帝国、オスマントルコ帝国
インカ帝国、スペイン帝国、大英帝国…
歴史上、繁栄からの滅亡は
特別なことではない
ひとりひとりの意識や努力では
変えられない命運もある
誰かが悪いのではなく
その民族の生命力の問題である
すれば、未来の幸福よりも
現在の幸福、Well-Being(佳く生きる)
老若男女がもっと真剣に
追求しなければ
この民族は浮かばれない
浅はかな知略ではなく
明日を楽しみにできる
社会経済の実現が
この国の生命力となるはず
ではないか
「首相は持論の地方創生政策で「楽しい日本」の実現を打ち出している。」「日本はずっと強さや豊かさをめざしてきた。これからは楽しい日本で、地方も楽しいと帰ろうという人も出てくる」と述べた
思いやりと 譲り合い
勤勉 と 和睦
尊敬 と 弁(わきま)え
日本人がたどりついた
民族性への回帰
が、 この国を活かす基盤
となるのではないか
楽しい日本、おかしくない