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新天地へ。出遅れ感に対する焦りと社内に翻弄される、がむしゃらな日々の始まり。 〜 気づいたら「個人内多様性」を獲得していた自分が、今までのキャリアでやってきたこと<vol.15>

いろいろな仕事に関わるあまり、自分の仕事を一言で表すのにいつも苦労する私。前回(キャリアチェンジ編)に引き続き、しばらく「日比谷のキャリアをひたすら時系列で紹介する」シリーズにお付き合いいただければと思います。

そのまま参考にしていただくのが難しいキャリアなので、変にサマらず淡々とお伝えし、「この部分は参考になるかも」というところをピックアップしていただき、いかに「個人内多様性」を有するキャリアに至ったかを紐解く参考にしていただければという狙いです。


先般、いわゆる骨太の方針が閣議決定され、柱の一つとしてスタートアップ政策も挙げられておりますねぇ。国だけでなく各地方公共団体が、産業振興のみならず、高齢化や関係人口創出や過疎等の地域課題解決を絡めた事業創造促進やスタートアップとの官民連携を掲げております。

それに併せて「エコシステム」なる、起業や事業成長を支援するための環境整備が進んでおりますね。

今思えば、私がベンチャー業界に足を踏み入れた90年代は、こんな「エコシステム」なんてもののはなく、マネジメントやファイナンスの知見はもちろん、マーケティングとか営業の方法すら手探りで進む時代でした。いや、賢い方々は、それなりに適法を見つけて効率よく事業を推進されていたのかもしれませんが、少なくとも私は暗中模索しながら這い回っていたように記憶しております。

ここからしばらくは、そんな時代のお話です。


■友人の紹介で大手からwebベンチャーへの転職

2003年。NTTソフトウェア(現・NTTテクノクロス)を退職後、ブランクなしで移った新天地は、投資情報サービスを提供するA社。経営陣には大学時代の後輩がいて、私は役員待遇でのジョインを求められました。

しかし、いきなり役員の立場になるのは、正直、不安がありました。社風に馴染めるのかどうかもわかりませんし、自分の実力が必ずしも通用するともかぎりません。そこであえて、「最初の1年は平社員で」とこちらから提案し、その後、互いに問題がなさそうなら役員になる前提で入社が決まりました。

これは見栄を切った部分もあるのですが、今にして思えば慎重な姿勢をとろうとしたのは賢明だったかもしれません。このA社で私は、良いことも悪いこともたっぷり経験することになるからです。

■転職に伴って事故物件からの転居を決意

当時、私は京急蒲田駅から徒歩15分ほどの場所にある、1Kのマンションで暮らしていました。それまでの通勤先である横浜と品川にバイクで通うには手頃な立地で、近所には飲み屋もたくさんありますし、地元の商店も充実しておりました。何より、6万円という破格の家賃が決め手になって即決した物件でした。

ただ、余談ですがこの部屋はいわゆる事故物件というやつで、私の前の住人がトラブルを起こし、退居後ですが亡くなったという前歴がありました。幸い、私はそうしたいわくが気にならないので安さに飛びついたわけですが、A社のオフィスは、渋谷の宮益坂上あたり。そこでいい機会なので気分転換を兼ね、より通勤の便の良い場所に引っ越すことにしました。

新たな居住地は世田谷区の三宿。時代的には夜の酒場が真っ盛りの頃で、夜な夜な芸能人が集まる店がいくつも並ぶ、三宿ブランドが確立された時期です。

しかし、新たな仕事に意欲を燃やしていた私は、横浜勤務時代ほど飲み歩くこともなく、毎日深夜まで仕事をして、帰ってシャワーを浴びて仮眠を取り、早朝にまた出社するという、まさしく馬車馬のごとく働く日々を送ることになります。

なぜそこまでがむしゃらに働けたのかというと、心のどこかに“出遅れてしまった”焦りを感じていたからでしょう。スタートアップで活躍している旧知の面々と比べ、大企業で4年過ごしたことがビハインドに思えてならなかったのです。

今振り返ってみれば、社会人としての下地作りにしっかり時間をかけられたのは良かったと理解していますが、当時の私にはそれがコンプレックスだったわけです。

そうそう、当時は有休消化とか失業手当をもらうという発想がなく、退職ギリギリまで働いて、次の日から新職場みたいな状況だったんですよね。そんなのこともあり、退去前夜に慌てて荷造りし、車で何往復もして何とか荷物を運び出したのは良い思い出だなぁ。無計画過ぎる時代でもありました。

■自作サーバに囲まれた環境に共感

A社の祖業は投資情報サービスの運営でした。まだオンライン証券取引が始まったばかりで、個人投資家向けの情報提供サービスが整備されていなかった時代ということもあり、これが好評を博していました。しかし、それ一本で稼ぐのはまだ難しく、サイト製作やシステム開発などを受注して売上をあげていました。典型的な「サービスを育てつつ受託で稼ぐ」ってやつですね。

経営は順調、極めて伸び盛り。しかし社員はまだ10名程度で致命的に人手が足りず、とりわけプロジェクトの進行管理を担うプロマネの確保が喫緊の課題とされていました。そこで人づてに紹介されたのが私でした。

入社を決める前には何度か宮益坂上のオフィスに遊びに行き、社内の雰囲気を見せてもらったり、何人かの社員と「雑談」形式の面談や飲み会への参加を経たり、社員が出演するライブを観に行くなど、お互いの相性を確認する機会を設けました。狭いオフィスの中にはぎっしりと机が並んでおり、メンバーは自作PCを使用。部屋の隅にはサーバラックが剥き出しで置かれており、UNIXサーバたちが無造作に設置されていたのが印象的で、「これはいいな」と思ったのを覚えております。

■体制変更の混乱の中、社内に溶け込むべく苦戦の日々

そんなプロセスを経て、ちょうどオフィスが増床し、道路を挟んだ向かいの今までの倍以上ある広めのビルに移転するタイミングで入社することになりました。

なんでもやってやるぞ、、と意気込んで入社したのですが、しかし順風満帆とはいきませんでした。私は後から知ったのですが、入社する前後で社長が交代したり、組織体制が変わったり、受注案件が増えるなど、社内の状況が目まぐるしく変わっていくタイミングでした。いや、その後も常に変わり続けていったので、スタートアップ(当時はベンチャーと呼ばれてましたが)的にはそれが当たり前だったとも言えますかねぇ。。

ともあれ、そんな慌ただしい状況の中で、入社早々、周囲の状況や空気を読み自力でキャッチアップしつつも、新しい仕事に向き合うことになるのでした。


次回は、怒涛の事業推進(仮)編をお届けする予定ですよ。

<気づいたら「個人内多様性」を獲得していた自分が、今までのキャリアでやってきたこと>
第1回:「誘われ力」を磨いたバンド時代編
第2回:「仕掛け人」として「連帯感作り」に目覚めた学園祭編
第3回:音楽が未知の世界へ飛び込む楽しさを教えてくれた
第4回:本格的に「デジタル」に目覚めた大学時代編
第5回:ベンチャービジネスとの出会い編
第6回:モラトリアム卒業編
第7回:バックパッカー編
第8回:新卒ゆるゆる時代と募る焦り編
第9回:複業で遭遇した大炎上編
第10回:自ら望んだ “火消し”チームで過ごした私の下積み時代編
第11回:生意気で衝突しまくっていた若手社員編
第12回:新卒番外編①:ジャズバー通いに明け暮れた新人時代
第13回:新卒番外編②:暇さえあれば日本全国を巡る
第14回:焦りを糧に熟成期間を経た、キャリアチェンジ編

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